夢実現・目標達成のための考え方と心身声のトレーニング(旧:ヴォイストレーナーの選び方)

声、発声、聞くこと、ヴォイストレーニングに関心のある人に( 1本版は、https://infobvt.wordpress.com/ をご利用ください。)

声から表現に

実演家が声を育てることについてのメリット、デメリットとその判断の違いについて述べます。

 私のようにトレーナーであっても、作品の選択やアドバイスまで加わるようになると、あたかもプロデューサーに近い役割になって、ぶちあたる問題があるからです。

 トレーナーとして声を育てるには、声が使えるということを、表現のよしあしで判断していく必要が出てきます。現実に使えるためには声だけの問題にとどまりません。ディレクション、プロデュースの観点が入ります。これは、1990年代に基礎ヴォイトレづくりを重ね、指針としていた研究所がとらざるをえなかった歩みでした。

 

1.声までをみている個人レッスン

2.声とそのフレーズを磨くためのグループレッスンの付加

3.グループレッスンを中心とした表現のオリジナリティを磨くための総合レッスン

4.グループレッスンでの選別、優れた人の発表の場=ライブステージのセッティング

 

 この順で、

1.声だけ(発声、共鳴、呼吸、体)

2.歌唱(アカペラ)、せりふ

3.PAや伴奏付、プロの伴奏(発表会)

4.バンドや打ち込みのBGM付(ステージ=実演)

 

 研究所の拠点も場も、

1.レンタルスタジオ

2.PA付スタジオ

3.ライブスタジオ

(4.ライブハウス)

のように広がっていったのです。

 

 これは、一人のアーティストが育っていくプロセスと同一です。おのずと研究所も大きくなり、90年代後半はライブハウスをレッスン場にするに至ったわけです。公開ライブ直前までいきましたが、そこで私がストップしたのは、時流に乗せることが音声(声)歌の完成よりも、ヴィジュアル面での拡充とならざるをえない状況に至っていたからです。

トレーナーの出身

かつてトレーナーは、皆、実演家でした。先輩として後輩を教えていたのです。そこには世代、つまり年代の差=年齢差があり、おのずと師-弟子の関係があったのです(師は、一家を成し、家元ともなりました)。

 芝居で、演出家は俳優から、プロデューサーに、ありました。ディレクターはアーティスト(歌手)から、兼任、そして専任となっていきました。俳優やアーティストとして大成しない人が、次に、その途中で教えるほうの才能を買われて、専任のコーチやトレーナーとなる人が出てきました。そのあとは、舞台実践者としては、あまり経験や実績のない人も、別の専門分野の勉強を元に演出家やプロデューサーになるようになりました。

 この経緯は、評論家やコンサルタントの誕生と似ています。批評から評論という専門家として、一般の人のナビゲーターを務めるようになるのです。そうした職が創造性のある作品として実践者に認められ、対等なパートナーの関係が築けるのは、かなり後のことでした。その後、演出家、プロデューサーなどとして、人によっては実演家よりも強い立場になっていったのです。

 

 歌の先生には、作曲家、そして演出家には、曲づくりや脚本づくりという独自のパートがあり、そこから出た人もいます。映画監督も、役者やミュージシャン、小説家、お笑い芸人がやっても珍しいことでなくなりました。

これら表現というのには、もはや専門の分野などはないといえます。その人独自の世界観があるかどうかということです。

分化と統合

トレーナーが見本ととして、わかりやすく、ゆっくりていねいに、スローモーションで分析してみせても、本当の基本とは違うのです。語学の勉強は、ゆっくりしたものを聞くよりも、ネイティブの早さに耳をならしていくことが基本です。ヴォイトレも、トレーナーが相手の体や感覚に近づいていくのでなく、その体、感覚を鋭く変えていかなくてはならないのです。私は、課題は短くはしますが、ゆっくりにはしません。

 次のどのスタンス(目的、レベル、本人の実力)で行なうのかが、大切なことです。

 

1.ステージ

2.曲の構成

3.1曲すべて

4.1コーラス

5.AメロかBメロかサビ

6.4~8フレーズ(8~32小節くらい)

7.1フレーズ(4~16小節くらい)

8.ひとこと、ひと声(ことば一つ)

 

 のように細分化します。その分、ていねい、かつダイナミックに、マックスの表現を求めます。次に8→1へ応用していくようにしています。

複数のトレーナーのアドバイスと相性

一人ではなく複数のトレーナーのアドバイスにヒントを求める方が、気づきやすいのは、いうまでもないでしょう。自分に合うタイプ、相性のよいタイプもいれば、そうでないタイプもいます。そうでないからだめかというと、だからこそ必要、かつ効果的ということもあるのです。

 人につくというからには、できるだけ多面的に自分をみていくことが大切です。

 

 声はわかりにくいのです。自分とトレーナーとで比べていけばよいのですが、なかなかトレーナーの声も自分の声もわかりません。トレーナー一人よりも複数名にすると、複数の声の接します。すると、より早く、そして、深いことに気づけます。トレーナーの相違からわかることが多いのです。ですから似たタイプトレーナーをつけることは勧めていません。そこから、自分も客観視しやすくなるのです。

 歌も、一人の歌手ばかりしか聞いていないと、どこまでその人の影響か本人のものか、わからなくなるのと同じです。

 基本は、「今のあなたになく、トレーナーにはあって、自分の欲しいところ」です。みたり知ったりできるところではありません。みえても人様のものです。そこではトレーナーをみるのも、ベテランの歌手や役者をみるのと変わりません。

オーダーメイドのレッスン

時代としては、一人ひとりのレッスン生をみて、メニュや方法を組み立てる方へと、トータルとしてのオーダーメイド方式になりつつあります。

 私のところでは半々の割合を保つように努めています。

 トレーナー独自のやり方と研究所としての共通のやり方も半々、トレーナーの望むやり方と生徒の望むやり方も半々、そこで調整していくのが最もよい方法とはいえませんが、当初は、比較的よいと思っています。

 お互いを知るにも、その才能や性格を知るにも、時間は必要です。あえて試行錯誤の幅を広くとるのです。それを急いで一人のトレーナーの一つのやり方で走らせてしまうと、賭けのようになります。

 

 最初につくトレーナーの影響力が大きいことは注意しなくてはなりません。そこで価値観や判断のベースができることが多いからです。つまり、最初やその次のあたりのトレーナーは、レッスン生の判断基準の生涯のベースとなりやすいということです。

 

 自分に何があるか、何が足りないか、それはどう得ていくのか、誰から何を学ぶのか、ついたトレーナーからは何が最も学べるのか、それを自分に活かすためにはどうすればよいかといったこと、レッスンの内容、方向、自主トレの内容、メニュは、大切なものです。できたらそれを定めていくことをを当初の目的としてもよいくらいです。

基本と応用について

レッスンの進め方を、レッスン受講生によせて変えていくか、トレーナーのもっとも自信のあるやり方で貫くか。

 トレーナーが

1.トレーナー(師や先生)から教わった方法

2.トレーナー自ら得た、もっとも自分にふさわしかった方法

3.指導に効果をあげた方法

 これらを型としてそのまま指導していくのか、レッスン生に合わせて、ときに新たに方法やメニュをつくりあげて、与えていくのか、どちらがよいかということです。

 私のところでは、これは常に問題です。しばしば私は判断を求められます。原則として、一人で教えず、複数のトレーナーをつけている研究所では、必ずこの問題は出てきます。意図して問題としてあがるようにしています。

 

 邦楽においては、絶対、守るべきは口伝でした。ところが、現代のメディア(音声動画の再生技術の普及)は、師弟制度の絶対性を根本から弱めました。

 1は、海外のノウハウを日本に持ってきただけのトレーナーにも通じます。

 2は、独善的に偏りやすい、トレーナーがどのレベルまで到達したかでみることとなります。そのことと、他の人にどこまで通じるかには、けっこう距離があります。

 3は、現実として人をどこまで育てられたかということです。

 それぞれ、その判断について一冊の本にできるほどの難題です。

 師をみるには、その弟子をみることもよい判断です。どんな弟子を育てたか、育てているかということです。あるいは、その師の師に聞いてみるのもよいでしょう。

 それによって、1、2、3のメリット、デメリットが少しは克服できます。優れた弟子になりたければ、優れた弟子のいるところを選ぶのも、一つの選択です。

悪循環にしない

一般的には、のどの状態や体調のよいときは(特に若ければ)何とでもなります。気をつけるのは、心身の状態やのどのよくないときです。

 第一に欲しいのは、休養、声を出さない時間をとること。途中の休みをたくさん入れること。

 第二には睡眠や栄養、気分を切りかえ、マイナスの方向にいかないようにします。

 

 トレーニングは、集中したときしか行なわれないようにします。ステージや練習よりも、そのあとのしゃべりすぎで声の状態を悪循環にしてしまう人が多いものです。

 打ち上げ、アルコールや食べ物が入った状態での大声でのおしゃべりほど、疲れたのどに悪いことはありません。

 

 サイン会や握手会、あいさつや会話も大きな負担です。お腹からの声でなく、軽く浅い声を使うほうが、のどへの負担を押さえられる人が多いです。低い声はしっかり使わないと発音不明瞭になります。自分の声の使用状態をガソリンのFull-Emptyのように考えるとよいでしょう。Eに近づいてきたと思ったらセーブすることです。

 のどの疲れは、休めないととれません。気力やハイテンションで、一時、大きく声が出ても、少しでもかすれているときは、地獄の一丁目近くにいるのです。自分の限界を試してみるのも必要ですが、越えてはいけないのです。調子の悪いときは、気をつけて、早めに休めるのです。

喉の守り方

喉の守り方は、トレーニングで知っていくことです。私は、2つに分けて考えています。目的やレベル、今、何を優先するかによっても違ってくるので、これを参考に考えてください。

 調子のよいときは、ハードにセッティングします。調子の悪いときは、以前は、休めませんでした。しかし研究のチャンスでもありました。何事も育てていく、鍛えるときと、それをキープするときは、考え方、対処の仕方が変わるものです。

1.環境をよくして、よい状態で声を出すことが第一でしょう。自分のことさえよくわからないうちはよい環境づくりを目指します。湿度や温度も整えます。

2.プロ志向の人なら、その上でハードさに耐えうるため、ときには乾燥や、熱いところ(とはいえ、ほこりなどはだめです)、寒いところはあまりよくありませんが、あえて試みます。慣れていく、非常時にどうなるのかを知ります。

 

 ステージやスタジオは、乾燥していて、照明や人、荷物の出入りで、発声によい環境ではありません。かつては、たばこでくもっているようなところでした。

 空気清浄機や加湿器は、練習の環境にとてもよいのですが、そうでない場でやることも考えておきましょう。

一人のファン

あなたが表現を続けたいなら、その表現で支えられる人(ファン)を一人みつけるまで頑張りましょう。一人いたら、100人を敵にまわしてもよいでしょう。その一人+α(次に現れるファン)のために、100人の負のエネルギーを前向きのパワーにしましょう。

 何かいわれるのは、力不足なのだと自省し、もっとがんばりましょう。私もそうして少しずつ力をつけてきました。一方で、ほめられ、あるいは何もいわれず、批判を恐れたり嫌になったりして、いつ知れずダメになった人をたくさんみてきました。それもその人の人生の選択です。

 表現していきたいなら、ぼろくそにいわれても、目立っていきましょう。目立つのが気に食わない人は放っておきましょう。少しずつ何かをやっている人たち、やり続けている人たちと親しくなって世界が開けていきます。

 まだ、あなたはそこまでやっていないから辛いでしょうが、一歩ずつ、そこから抜け出していきましょう。「類は友を呼ぶ」のです。低いレベルで争ったり気にしていては、そこから抜け出せなくなります。貴重なエネルギーをムダに費やすのはやめましょうね。

あとから出る

私のまわりにも一流のことや大きなことを成した人、成そうとしている人がいます。皆、あなたと比べ物にならないくらい叩かれています。あることないこと、好き勝手にいわれたり、書かれています。その多くは、ねたみ、そねみ、嫉妬からです。

 その大半は、あなたのまわりから出てくるものです。目立つのが心地よくないから、引きずりおろそうとしているのです。

 日本では、島国根性、世間というものがあり、同調圧力など、この傾向が強いわけです。自分の名も出さずに悪口を連ねるといった、大切な人生のムダ、消耗をできる人が、たくさんいます。情熱を前向きに使えば、その人の人生がよくなるのに、と思います。

 マスコミの一部もそうですね。商売や自分の利益になり、それで飯を食っている人たちもいるのです。海外と異なり、匿名というのが共通です。

 超人的な才能か実力があれば、誰もが賞賛してくれるでしょうが、多くの人は、そんなにうまく何でもできるものではありません。

 私にも万能、神のようであって欲しいと願う人は、そうでない実の私を非難するのでしょう。しかし、私からいわせてもらえば少しは自分でやれよということです。サッカーや野球選手が成績の落ちたときの、ファンの身勝手さにいたたまれない気持ちもわかります。反論しても仕方ない、よい結果を出すしかないのです。

活動へのクレーム

表現することは、人に働きかけるのですから、反応が戻ってきます。働きかけないと戻ってさえきません。反応があってこそ、第一歩です。自分への批判や非難は、自分の声が届いている、影響力のある証です。

 相手が人生の貴重な時間を削って自分に意見してくれていると思えばよいのです。もちろん、ひどいもの、耐えられないものもあるでしょう。自分の身体への直接的な働きかけ以外であれば無視するのは、あなたの自由です。

 匿名の批判については、オール無視してよいと思います。表現はその人の名のもとに行なうものと思っています。そうでない声を、「いつ」「誰が」の2つのことがわからないと、考えても意味がありません。反論もしません。誰がどこで何をいおうと、自由です。

 それが自分を落ち込ませたり、活動への力を削ぐというのでしたら、バカらしいことです。自分自身との戦いに負けたことになります。どんな負の刺激でも、大きいほど、見返させてやろうとがんばりましょう。そこで悪口で返すようでは同じ穴のムジナです。あなたはそれを糧に成長すればよいのです。むこうはそんなことにかまっている分、堕ちていくだけです。

正論にする

発声や歌唱には、不毛な論議が多すぎるので、私はこの「トレ選」で正論というか、本音を述べています。

正論というのは、正しい論を立てるということだけではありません。問題にしたことで問題になるものは、問題にしないようにすることの方が大切です。自分の人生において前向きに、現実に実現していくことに集中するということです。うしろ向きになっていたり、時間が余っていると、人は他の人を否定するようなことばかり考えるからです。そういう人に付き合っていくと、迷走することになります。机上の議論には引き上げ、人生で勝ちましょう。