夢実現・目標達成のための考え方と心身声のトレーニング(旧:ヴォイストレーナーの選び方)

声、発声、聞くこと、ヴォイストレーニングに関心のある人に( 1本版は、https://infobvt.wordpress.com/ をご利用ください。)

レッスンとPR・個人情報

 研究所の出身者やここにいる人のこと、有名人などを聞かれます。私は、ここではみかけても口外しないようにお願いしています。

 トレーニングというのは、人にみせるものでありません。一人で静かに、たんたんと、地道に積み重ねなくてはならないものです。レッスンは、そのためのアドバイスであり、確認です。トレーニングがベースで、日常の生活で音声の環境や習慣を変えることが求められます。体、感覚の条件づくりのペースメーカーと思っています。そういう環境を守れなくてはすべて、個室の個人レッスンにした意味もなくなります。

 ですから、私もレクチャーでは饒舌で、サービス精神旺盛です、方針についてはたくさん説明しますが、レッスンでは寡黙でありたいと思っています。

 

 かつてのグループレッスンでも、私は一言もしゃべらない、来た人が主役のレッスンをめざしていました。ライブでも、合宿でも、MC役の私が声を出すようになるにつれて、終わっていったたと思います。

 自分の声を自分で聞くことがとても大切です。メールでQ&Aをして、レッスンは「話よりも声を」と考えています。

 トレーナーが、たくさん話したり、たくさん見本をみせると、最近は、たくさんやってくれたということで、受けられた人の評価は上がります。それは主役が違います。

 レッスンにくる人がレッスンをするのです。声を出すのです。この時代、私のように沈黙で伝えるという技は使えなくなっていくのは、困ったことです。

救済と創造

 声から考えるのと、(体から)表現から考えるのは、大きな隔たりがあります。現代の人は少しでも早くばかりを結局求めがちです。早く楽にうまくなりたい―というのは、学校教育=平均化=落ちこぼれ救済教育であります。(他国に模範をとれる工業化社会時代のもの)

 基礎はそれでいいと考える人は日本に多いのですが、私は、基礎こそ、創造的でなくてはならないと考えています。思えば、日本の産業は欧米の表面的なものまねでスタートしました。基本特許料を払っていました。今は、アジアが日本をまね、日本の基礎の部品を使っていないとつくれないのです。ところが、アートの分野は逆行しているような感が強いのです。

 日本の誇るべき伝統の芸は、今や風前の灯です。戦後、特に団塊の世代アメリカ化によって、ロックやエレキギターに置き換えられていったのです。それでも楽器やダンスの技術はスポーツと同じく国際レベルに達しています。

 復興してピークにある落語、弱体化したもののすそ野の広いお笑い芸(人)、そして、かぶき者の歌舞伎の音声は、ときに胸を打たれます。世界で引けをとるものではありません。

 トレーナーとしては、落ちこぼれ救済での実績を元にして一流の才をつぶすようなことを気をつけなくてはいけません。才能のある多くの人の将来は、そう簡単に見抜けないものです。

 私は、ひと声については、それぞれにすごい研究所のトレーナー(オペラ歌手ですから)ですが、その点の自覚と自戒を促しています。ここに来ないと救われなかった人の声を助けること、それと、どこでもやれる力があるからこそ、ここで他のどこよりも進歩させられたという人を輩出すること、これが今からの研究所のあり方となっています。

今をみるトレーナーと先をみるトレーナー

レッスンとして具体的に考えるのなら、両立は不可能ではありません。2人のトレーナーが、一人は今に、もう一人は遠い将来に対応するのです。「発声、声づくりと歌唱は反する」というのは、こういうことを言っているのです。どちらかしか選べないとか、矛盾して駄目になるのではありません。

本人の器が大きくなって、包括して昇華できればよいのです。消化してしまってはいけないです。

 職人はクリエーター、発注主の注文に応じてつくりかえます。芸術家はアーティストとして、自分の思うものをつくります。トレーナーはアーティストよりは職人であることを望まれます。役者や歌手よりも監督、演出家、プロデューサー、作詞作曲家、アレンジャー、SEあたりの方が創造的で、アーティストとして取り上げられるようになったのですから、トレーナーもアーティストであるべきというのは、私の立場です。

姿形の制限と音声の成立

日本人は、音声よりも形、耳よりも目を重んじてきました。声も話も歌も、ヴォイトレも、フィルターをかけてゆがませているというのが、私の持論です。

私は、研究所を、「音声、表現、(生)舞台での基本」を学ぶところとしました。目をつぶって聞こえてくる世界で、基準を確立しようとしたのです。日本のほとんどの分野がヴィジュアル中心になっていくことへのアンチテーゼ

です。

 詩吟、邦楽、歌舞伎、噺家の指導をしてきた私も、能と関わったときは、ためらいました。目をつぶって聞こえてくる音、声の世界での成立の基準のとりにくさでした。生の舞台や舞台裏をみたあとも、狂言はわかりやすいのですが、能は、衣装や舞とヴィジュアルあっての音声で、様式美中心です。型のなかに声を入れていくことで、音声の可能性は閉ざされているのかもしれません。節回し(音程、リズム)や声のトーンには、流派によって多様な価値観があり、音声を切って離せないでしょう。

 私は能のCD(音声世界)というのは、成立するのかというと疑問を持たざるをえないのです。詩吟、長唄はそれが主です。落語や狂言では、音声だけにすると見る面白さが失われるとはいえ、名人級であれば成立するでしょう。

 一流の音声を学ぶのなら、声楽家やオペラだけとはいいません。自らの体を中心に最高の音声(表現)を追求すべきです。そのときに形、姿勢や表情、ことばや発音をしないのです。これが私の考える声、発声の基本であり、ヴォイトレです。

 それに対して、一流に見せようと早く上げるなら、制限された型のなかでの使い方、体、声、歌を覚えて、コントロール、調整していけばよいのです。

 師をまねて守破離の手順を踏む日本の伝統芸では、時代を経るにつれ、守で終わってしまいがちです。伝承に傾いているからです。某歌劇団や某劇団から、二世三世ではありませんが、トップスターを真似て、早く途中まで育った挙句、そこに達しなかった人を山というほどみてきて、そう考えるのです。

「早く」と「上に」の違い

レーニングとは、より早く、より上にいくためのものです。この「早く」と「上に」をきちんと考えなくてはなりません。「早く」とは、他の人が10年かけてたどり着いたことを、10年より早く達することです。それに対して、「上に」とは、その人より上にいけるということです。その人とは、師やトレーナーでもよいし、最高のアーティストでもよいでしょう。何年かかってもいくということです。では、上とは何かということになります。ここでは他の人の上というのをさらに超えて「深い」といっておきます。

 気をつけなくてはいけないのは、早くあるレベルにいけたからといって、誰よりも上にいけるわけではないということです。まして深くなるとは限りません。

 同じことをできるようになるのに、早くできた人のほうが、より上にいくのに有利と思います。早く活躍の場、機会と経験が与えられると、力がつくことが多いからです。

 しかし、人生、大器晩成型もいます。長く生きる人もいます。途中で失速する人もいます。

創始者や他からこの世界に飛び込んできた人と、二世三世といった人との違いもあります。オーナーとサラリーマン経営者、二世などの違いも関係ありそうです。

オペラ歌手の基本に範をとる

今、私は能という、舞うのも座るのも形があるもの、型の決まっているものに接しています。謡の声は、姿勢、肉体の制限下に調整しなくてはなりません。直立不動の合唱団で発声を最高にするためにそこから何をするかということに似ています。そこで私は、そういう職人肌の人を共に組むトレーナーとして選びました。

プロデューサー、演出家の注文に合わせて、声をコントロールする術を与える、これは、トレーナーをはじめたときの私の立場、やり方に似ています。演出家、プロデューサー、作曲家と共に選ばれたのに基礎力のない日本のプロ歌手に、私はレッスンしていたからです。基礎力がないと、タレントや役者に移るか引退、転職することになります。私の理想と裏腹に、現場での要求という現実に対処していたのです。それを直視して、基礎づくりをまでじっくりととりくめないプロダクションやプロとやるよりも、一般の人から育てようとグループレッスンを始めたのです。 

プロに対して、私は、表現と体(声)からみています。ここのトレーナーの出身はオペラ歌手が多く、全身から声を出して共鳴させる専門家です。現実対応の先に理想があります。一般の人、役者、声優を教えていると、現実に対応できるようにもなります。現実に対応してしまうようにもなってしまうのです。

 役者の声とオペラ歌手の声のもっとも大きな違いは何でしょう。それは、クライマックスの死ぬシーンで顕著に現れます。役者は死ぬ人になりきり、しぐさ、表情に同化した声を出します。オペラ歌手は発声を共鳴、スタイルを崩さずに通します。声ことば共鳴の優先順位が違うのです。

 役者や声優がたくさん学んでいる研究所なのに、声楽家中心のトレーナーにしているのは、私が声から全てを考えている立場をとっているからです。

一流の感覚

 私が最初から研究所でめざしていたのは、一流の人材の養成です。心技ともにずば抜けたレベルに到達するためにレッスンとトレーニングがありました。スタートラインがプロへの指導だったために、必修でした。一流育成のために、世界の一流に学ぼうということで、声を徹底して学ばせたわけです。

 そののち、かつてのグループレッスンでは音楽の感覚までをプログラムすることになりました。世界の一流レベルの声、歌、そこから日本人の一流レベルの声、歌と、相違点を徹底して分析して、プログラム化しました。わかる人にはわかること、どのようにわからない人に伝え、わからない人をわかる人にできるかが、レッスンの目的になっていきました。これには個人レッスンの方が適していたのでスタジオも体制も大きく変えました。

理想を保ちつつ、どこまで現実にあてはめていくのかの試みです。いらした方だけでなく、私自身にもさまざまな示唆を与えてくれたと思います。

一流と二流のプロセスの違い

 先日、ある高名な役者と話す機会がありました。そこで、一流として大成する人と、それに至らない人との違いの話をしました。

 考えてみると、研究所に、プロの人がいて、その上を目指してレッスンをしています。一方で、何とかこの世界で生きていこう、一人前になるというところを目指す人もいます。人並みの声に戻せたら、幸せという人もいます。

他のところでは、決してできない内容や体制で行なっているから、さまざまな人がきます。30%くらいの人は、よい面でも悪い面でも、他にはいくところのない人といえるかもしれません。ここは、すごくおもしろいところと思っています。

 

カラオケと初音ミク

自分の声や歌が嫌だとか、めんどうだとなると、ヴォーカロイドを使うようになります。その是非はここでは問いません。クールジャパン、日本の商品文化として大いに世界で広まると良いと思います。生身でない分、24時間、世界中で同時に活躍できるのですから、デジタルは違う可能性があります。ドラムで32ビート、64ビート、128ビートが、打ち込みで可能といって使わないのと同じく、初音ミクが10オクターブで歌っても受け入れられるでしょうか。生身の体でハイC超えとか3オクターブに挑戦している人を、もしアートをめざすのなら、もったいないと思います。否定はしませんが、世界にはすでにもっとできる人がいっぱいいます。

日本の技術は、声や歌をカバーして「カラオケ」を開発、普及し、次に「ヴォーカロイド」と、先端のテクノロジーでフォローしました。のゲーム世代の耳=脳の変化もあります。アナログ=ラジオ・レコード、デジタル=ipad、パソコンとはいいませんが、人の感情は育ちでできた脳で決まっていくのです。私が嫌なデジタル音でうきうきする人を、おかしいとはいえません。目が疲れて、朗読で聞く人が増えています。このあたりを私は押さえていくところにしています。

科学、医学とヴォイトレ

科学が、アートの世界にまで入ってきたのはよいことですが、私は科学としての情報を集めて、使えないとことを説明しています。のどをいくらみてもらって、外科的な手術で解決できること以外については、メンタルの問題が大半です。心身ともに鍛えていくためにトータルのトレーニングをやるしかないのです。その当たり前のことがわからなくなっている時代です。

 何事にも、そこにいけばすぐに解決するなどということはありません。いろいろな理論武装をして、いろんなものを手を変え品を変え、やろうとしても、本当のことに気づけば、そんなものに頼らず、自分でしっかりと日々トレーニングしていくしかないのです。そういうところから、ここにはいらっしゃった人がたくさんいます。(Vol.250巻頭言より)

                                            

 声に関わる機能的な問題はいろいろとあるのですが、舌の長い短いなど、医学(手術)で直せないことは、自分をよく知って、最良の使い方を見つけていくのです。そのためにトレーナーを使うのです。自分を知るためにレッスンを使うのです。他の人と比べたり自分の悪いところばかり気にしてもしかたありません。

 声は最高の声、歌は最高の歌を目指してください。たとえ、そうでなくてもやってはいけないわけではないのです。他人になろうとは、しないことです。

頭を空っぽにする

私も、のどや体について、随分と詳しくなりました。でも、ことばには専門用語や知識は、なるべく出さないようにしています。中途半端に頭でっかちにするとあとで苦労します。事実よりもイメージの言語が大切です。ことばや知識、理論にこだわる人は、発声がよくなりません。私のところには、本や、メルマガの読者でいらっしゃる人も多いので、そこを注意しています。

 トレーナーは人の体を扱うので、最低の知識は、健康や安全のために必要です。しかしトレーナーについているなら、そこはトレーナーに任せればよいのです。レッスンでは頭を空っぽにしましょう。

最近はメンタルな問題も大きいです。どうしても正しい知識に基づいてとか、科学的ということを重視する傾向が強いからです。

 私のところは、そういうものを測る専門の器材があります。、そういうもの関心があっていらっしゃる人もいます。しかし、すぐれたトレーナーの耳には及びません。たとえば、声帯の振動数が1秒に何回という世界において、その回数を云々するようなことは研究者に任せたらよいのです。

 ゴルフのボールとシャフトのインパクトの角度が何点何何度などというのは、いくら知っても使えないでしょう。コーチが分析してアドバイスすればよいのです。本人は、ボールの行き先をみていれば、結果はわかるのです。角度でなく、全体のフォームとそのコントロール力で正していくしかないのです。そのまえに、同じスイングができる力をつけることです。

出口が入口

 声については案外と他の専門家も見抜けないことが多いようで、嘆かわしいことによく直面させられます。私としては、そこを他のどんなトレーニングもそれもあり、それもよしとした上で、一線を画しています。その出口が入り口にしか過ぎないことを知ってからいらっしゃればありがたいと思っています。

 一般の人には、手が届くような目標にしてみせて、モティベートや自信を起こさせる、それは、メンタル面に問題のある人にも、場合によっては、よい処方箋となるからです。

 多くの人に対して短い時間で効果をみせなくてはならないとき、専門外やまったくの畑違いの人にヴォイトレをアピールするときに、わかりやすく伝えられるのです。私もときおり利用しています。

 たとえば、研修で、早口ことばを入れると、早く打ち解け和気あいあいとなります。体のこと、体操や柔軟なども同じです。発声と関係しているから、程度の低いことですが、一般受けも、玄人受けしてしまうのです。

 本当の問題は、全体ではなく個、今ではなく将来に対して、どのようにトレーニングをセットしていくかということです。

私がグループレッスンをやめて個人レッスンにした第一の理由です。他人をみて学べるというメリットをなくすのは勇気がいりましたが、より大きなメリットをとりました。

 

 自分の今をみる、今の体、今の24時間、次に過去をみてこそ、本当の自分の将来を推し量る力がつくのです。これまでのすべての問題が今の声(発声に関するすべて)に出ていますと、そこを、どこまで厳しくみることができるかどうか、今の声をどこまでていねいにコントロールしていけるのかという感覚=体に入ることが大事なのです。