夢実現・目標達成のための考え方と心身声のトレーニング(旧:ヴォイストレーナーの選び方)

声、発声、聞くこと、ヴォイストレーニングに関心のある人に( 1本版は、https://infobvt.wordpress.com/ をご利用ください。)

メンタルからフィジカル、そして

 メンタルの問題、心療内科精神科医につながるようなことについて、フォローすることが増えました。何人かのトレーナーにも基礎的なことを学んでもらいました。私が大学性の頃に学んだことや音楽療法などで知ったことも役立っています。

 そういえば、私が学んだとき、無益だった現象学は、ヴォイトレについて多くの示唆を与えてくれました。心理学も社会学も実在主義など哲学も、上の世代の人とやっていくのに、うまく働いたのかもしれません。

世界を飛び回り、言語、民族、体の相違に突き当たったときに、比較文化論やレヴィ・ストロース、コンラード・ローレンスなど、どこで何が役立つか分からないものです。もっと学んでおけばよかったと思います。これまで思わなかったのですが、今は、そう思うのです。

 

 メンタルやフィジカルについて、パーソナルトレーナーでは優秀な人が出てきて、マスメディアが取り上げるようになってきました。

斉藤孝氏の「声に出して読みたい日本語」のヒットの頃、身体論が見直され、音読メソッドから、川島氏に代表される脳トレ甲野善紀氏の古武術などの、流れの延長上に、ヴォイトレの一部ものってきたように思われます。

 ヴォイトレ、声への関心も高まり、新しいトレーナー、トレーニング法がたくさん出てきました。私も音楽の分野から、役者、声優などを経て、一般の分野に引きこまれ、これまでと違う人たちと出会うことになりました。健康としての体への関心が高まって、「TARZAN」のような雑誌が売れ行きを伸ばしています。腹をへこますとか、体幹インナーマッスルとかで、科学的、生理学的なトレーニング法が出てきたのです。美容や老化防止(アンチエイジング)に結びついて、老若男女問わずブームとなり、いろんな機器や小道具も登場しました。

 ヴォイトレも少なからず影響を受けています。オリンピックを目指して奔走したスポーツ科学に比べると恥ずかしいばかりの程度ですが。

声が聞こえる

 あなたの声も歌も、みてくれと言われるとみています。多くのレッスンはそこで終わりです。しかし、みてくれと言われなくとも、私は、あなたを感じようと沈黙します。あなたが私を感じさせたら、そこから、あなたは変わっていくのです。

 他のトレーナーの指導しようというスタンスとは、私は違います。そこは他のトレーナーにお願いしています。レッスンや指導で妨げないことです。教えても大して何にもならないことも知っていますが、人に教わることは、とてもよいことなので、そうできるようにしています。

シンプルにすれば、おのずとみえてくるものです。それを声やことばや、歌で邪魔をしてはいけません。そしたら、本当の声もことばも歌も聞こえてくるのです。

声がなくなる

 ヴォイトレのレッスンというと、以前はスケールの上下降することや「アエイオウ」のヴォーカリーズ、歌いあげることのように思われていたようです。

 私はその人と、人間として向き合いつつ、その時間は相手も私もいなくなってしまうのを理想としています。声が全ての空間、時間を満たして、声があらゆるものを無にする。聞こえるのは声だけ、見えるものは何もない、それで満たされるのです。他に何ら欠けていない主役として演じている相手も、同じように感じているのです。

 いつも、声も歌もあってはいけない、消えていることです。それが本当の声であり、歌です。

 外国人やお坊さんに声がいいですねと言われている私は、そんな程度であり、それゆえヴォイストレーナーに甘んじている次第です。

 ただ、歌や声で、もっと大切なものを邪魔しないように心がけています。声を出すのもせりふを言うのも、歌を歌うのも、せりふや歌そのためではありません。声もせりふも歌も消して心が満たされるためにあるのです。私のヴォイトレは、そこをみているのです。

人知を超えて

 声の動きに、そこからこぼれてくるニュアンス、印象、余韻を、散る桜の花びらの舞いに例えたいと思います。そこに人間の力、いや、人が人を超えた力が働きます。歌があれば、声が、音楽の中のことばと溶け合うのです。私はその天使となれる日を夢見ていました。何十回か堪能させてもらっています。まずは私の心を射抜くものが出てくるところからです。その日のためにレッスンはあります。ステージで喝采を浴びるのは、私の手を離れたところで委ねています。

                                      

 声の働き、動き、ため、艶、彩、空気の振動、これらは鼓膜だけでなく、体感、心の反応、心揺さぶる感動、甘美な世界への誘いとなりゆくのです。

 一流プレイヤーとなると、ミューズをみるといいます。そういうレッスン、それを、私は声や歌で、マイクもないアカペラのステージで、レッスンの場として経験してきたと思います。一流のアーティストのように何度も、自分自身ではとり出せなかったものを、才能のある人に接する中で感じるのです。

一声、一フレーズ、一曲の関係

 多くの人を通して、一つの歌、一つの声のその成果を、最高のレベルに結実させるようにしています。それには、声が成立するところがスタートです。それを私は「ハイ」という一声から探っています。

 一声で成立させることが無理なら、一フレーズで、一フレーズで無理なら一曲与えようというのが、私のスタンスです。これは一曲が無理なら一フレーズで、一フレーズが無理なら一声でという絶対的な厳しさの中で声の本質を取り出すためです。「ハイ」と成り立たなければ何にもなりません。完成には遠くとも、一フレーズで使い、一曲で使って知っていくことです。こなすとかまとめるというふうにとられると困るのです。一声で勝負できなくとも、歌では一曲でいろんな勝負の仕方があることも知っておくのも大切です。

これは無限の表現の可能性のようにみえます。しかし、そこでは、限界を早く見極めたゆえの、工夫、へたをすれば割り切り、ごまかしにもなります。もとより虚を実に見せる世界ですから、その虚は問いません。

 逆にいろいろとあるのは迷ったり、堂々めぐりすることになるので、まずは、一フレーズと言っているのです。

体の声

 歌い手は歌という作品で勝負しますから、1オクターブ半で3分間という単位を中心に考えます。ディレクターは、90分というステージ構成で考えるので、どうしても、こなす、まとめる、あげるという方向になります。どちらもベテランになるほど技巧者になります。

プレイヤーに対し、パーソナルトレーナーは、監督やコーチとは別の役割です。その人の体や筋肉からみて整えることが仕事です。

 私たちも、体の声として表現に思いを馳せますが、体と声から整えたく思っています。その人のライブやレコーディングそのものではない、それを参考にしても、もっとあるべき理想を追求します。

 私は歌や音楽にどっぷり漬かっていないから、ことば、音楽より、声の原初のエネルギーからみるのです。そこでは、あまり急ぐとよくないのです。

 

 ですから、今のあなたの歌と声そのものに可能性を加え、あなた自身の可能性をみているつもりです。「期待はしないが誰よりも信じている」と思います。それは、「人生は生きるに値するほどでないが、絶望するほどひどくない」に似ているようです。

 ある意味で、今、ここでの歌や表現をスルーしているときもあります。それは、その人がその人自身たるエネルギーを発していないからです。パワーをもつまで潜在的なあなたの力に働きかけていくのです。

 

トレーナーの限界

 トレーナーに個性があるほど、メリットとデメリットを両方、受けることになるのです。ここでは、私が仲介できるようにしています。個性のないトレーナーが、基礎トレーニングとして適していることもあります。

 トレーナーが自身の限界(才能と長所、短所)を知っていること、自分より有能な適材の人材を知っていて、任せることを選択に入れていることも大切です。

若くてもパワーがある、時間がある、安いとか、技量とは違うメリットを持つトレーナーもいます。人によっては回数や量を与えた方がよいこともあります。それらをフィードバックできる体制を持つこと、援護したり補ったりする組織にする必要があります。

 

 本人が活動していくプロの現場を知っていること。そういうところにいるプロやプロデューサーと関係をオープンにしていることが大切です。

 声はいかようにも使われます。自分の生きてきたところ、見聞した世界だけが全てと思ってはなりません。常に社会に対して、仕事に対して、開かれていなくては偏るのです。

飛躍のためのレッスン

 声と音楽の配合によって本当の歌が生じる飛躍の瞬間があるのです。

 それを、予期して引き出すのが、私の中では、最高のレッスンです。そのようなレッスンは、100回に1回、100人に1人ですが、確かにあるのです。そのようにセッティングしないと、才能ある人が来ても、奇跡の生じることはありません。そのきっかけや兆しだけでもかまいません。10回に1回、何かが出てくるようなレッスンであれば、よい関係です。

 頭でっかちになること、偏見をもってみること、意図を露わに出すのは、避けることです。無理な発声の音域や声量では難しいフレーズでは、こなすのに精いっぱいです。新しい可能性の出てくる余地がないのです。自分でできることでしっかりと歌い込むのは、基礎ではないのですが、大切なアプローチです。

2つの役割

 ヴォイストレーナーは、声に関して、芸道の基礎を作っていく、という役割があります。これは、声楽家のトレーナーでも声楽かぶれしていなければ、半分はお任せしてもよいと思います。

 もう一つ、表現のオリジナリティを見抜くこと、これは、音楽プロディーサーやディレクターの役割ですが、日本の場合、多くをビジュアル面に負っています。ルックスやスタイル中心と音楽性の判断にすぐれた人はいるのですが、なぜか歌の声にまで至っていません。そういう人は歌としてみると、声のよし悪しでなく、音楽としてのよし悪しでみてしまうのです。

 本当のオリジナリティは、その間に、その人の声が歌いだすとき、歌と声が一体化するときに生じるのです。心と体の一致といってもよいでしょう。

 私は、

1.声そののもの魅力

2.声のフレーズでの魅力

3.フレーズの組み合わせの魅力

と分けてみています。1は生来持っている声、2は音楽性で比較的わかりやすいのですが、どう化けるかわからないところです。よほどの人でないと意図して取り出せません。

幅を広げること

 声の器を大きくするというのは、上の線(頭声や裏声)を伸ばしたり下の線(胸声)を伸ばしたりするのではありません。上の線と下の線の間に幅をもたせ、その中でいろんな線の引ける可能性を高めていくことです。

 一つの声でも、「縦の線に」と言っています。上にもっていく(奥をあける、頭部共鳴させる)のは、たての線の上半分のこと、いや、先端にすぎません。☆

そこばかりひっぱる人が多いのですが、その分、下に根っこを引っ張ることが必要です。これは誤解されやすく、「重く、暗く、太く」を、「ぶつける、こもる、押しつける、掘る」となると、好ましくありません。このあたりをわからせるには、説明では大変です。実感できる日を待つしかありません。

 胸声を、喉声として否定する人は、欧米人のロックや役者の声、ワールドミュージックを聞いたことがないのでしょうか。

 自分でできないから、他人にできないと思ってはいけないのです。自分にできなくとも、その人にできるものを引き出して伸ばしましょう。他人をどう活かすかも、オリジナリティでしょう。

 

方法、メニュによし悪しはない

 こういう方法のよし悪しは、よく議論されます。しかし、方法やメニュ、トレーニングは、目的のために行うものです。例えば「ハイ」をやったら歌いにくくなったと言っても、当たり前のことです。これは、すぐに歌うためのトレーニングではないからです。

こうした現場をみずに、方法やメニュだけを取り出して、単体で使えるとか使えないとか、正しいとか間違っているかというよう論議や批判はやめてもらいたいものです。

 私は「腕立てをやったあと、すぐにバッターボックスに入るバッターはいない」と言っています。トレーナーにおいても、相手においても、同じメニュが、目的、レベル、現状において千変万化します。少なくとも私は1000以上のメニュを持っていますが、どのメニュも変化させて使っています。

 

 1か月先どうしたいかから、1年、5年、10年先をも予感しなくてはいけないから、その人の表現の問題に入らざるを得ないのです。つまり、体から出てくるであろう声の向かう先です。そこで体から出てくる声の必要のないこと、使っていられないこともあるからです。

 表現に合わせて声を使わせるレッスンの多いなかで、私は基本的に「出てきた声の上で表現を動かそう」という主旨です。

 すると声の完成度の高い声域、声量、音色での表現となります。現実には半オクターブくらいでのフレーズトレーニングが中心にならざるをえません。その人の声と歌、セリフをどのようにみていくかは、本人と相談しながら進めていきます。そこで方針、これは方法と共に将来的な可能性と展開についての予見を伝えて、考えてもらうのです。

 

基本の基本「ハイ」

 基本の一声として、「アー」でも「ヤッホー」でもいいですが、私は「ハイ」をよく使います。「ハ、イ」という、元気のよい明快な声ではなく、「Hai」と体からストレートに出てくる声です。Hは声帯音で、発声に障害のある人が、最初のきっかけにとる音でもあります。「ハイ」は、人間関係の基本でもあります。相手に反応して「ハイ」と返してコミュニケーションしていくでしょう。ビジネスマンの研修では、この理由を、もっともらしく後づけしています。

 

 最初は「ハッ」を使いました。お祭りや掛け声からのヒントでしたが、喉に負担を強いるので、「イ」をaiの二重母音のような感覚でつけました。だから、日本語の「イ」のように口を横にひっぱっらないのです。響きが、鼻の辺りに残るようなのがよいです。ことば、発音でなく声(音)の練習です。ことばの「ハイ」の明瞭さでなく、声がよく聞こえる方がいいのです。

 これは、最初は日本人に苦手な深い声、胸声の強化として、低めで、「太く、強く、大きく」としていました。発声というと、すぐに頭や鼻に響かすのが練習というのは、声楽から来た慣習のようです。

 日本人は元々鼻にはかかりやすい声をしているのです。日本語はフランス語ほどではありませんが、鼻音、鼻濁音もよく使います。戦前戦後、1950年代くらいまでの歌手をみるとよくわかります。小柄な日本人にとって頭での共鳴は民謡など邦楽でも、大いに使われていたのです。

 そして、「Hi」は最初、スタッカートのように、伸ばさないで切っていたので、一瞬の声(今でポジション、声の芯をとる発声、それをぶつけすぎから)でした。そこから共鳴につなげられない人が多く、歌とつなげるため、レガートのように「ラ、ラー」とつけました。「ハイ、ラ、ラー」と3ステップにしたのです。つまり、声の線をとるトレーニングです。

 よく考えれば、「ハイ」のところで「イ」の響きを頭声にもってくれば、すむわけです。こうして相反する要素を1つの声の中で包括して、器を大きくする基本メニュにしました。

 これは、セリフで原詞を読み、1オクターブ上で歌って、カンツォーネの大曲などでフレーズから、声を育てていた即興的な方法にはついていけない人へのアプローチとして有効です。150キロのボールを振り切って当たらないなら、まぐれ当たりでホームランを打てる人を除いては、空振りする間に、バントからミートしていきましょうということです。