夢実現・目標達成のための考え方と心身声のトレーニング(旧:ヴォイストレーナーの選び方)

声、発声、聞くこと、ヴォイストレーニングに関心のある人に( 1本版は、https://infobvt.wordpress.com/ をご利用ください。)

教える関係での偏り

トレーナーの仕事が教えることとするなら、何らかにおいて教えられる人よりすぐれており、そのスキルを伝えることで仕事としているからです。

 すると、歌ってきた人とこれから歌う人の間では、歌ってきたことで知っていることを伝えるのが教えることにもなります。プロがアマチュアに教えるといっても、表現のプロもいれば、指導のプロもいます。何をもってプロとするかは大変にわかりにくいことです。アマチュア同士で教え合うこともあるので、あまり区別しないでよいとも思います。

 

 スクールでは、入ったばかりの人が、すぐにトレーナーに勧誘されてなっているケースもあります。そういう人は、いろいろと困って、よくここに教え方を学びにきます。教える資格がないとは思いません。長年やっているからといって問題がないともいえません。完成することのない、奥の深いものだからです。

 レッスンやトレーニングでは、「教える―教えられるという関係」が生じることによって、それまでになかった、たくさんの問題が出てきます。それらのなかには、教えるという体制をつくるためにつくられたもの、人によっては必要のないもの、役に立たないもの、害になるものも少なくないのです。

レッスン特有の価値問題

個性とは、多様なものですから、それに基づくレッスンでも多角的にものをみるようにしています。そのことは、共通化、共有化、ルール化が必要とされる実際のトレーニングにおいて、多くの問題を引き起こします。まして組織として、複数で行うと尚さらです。複雑になってもしかたないので、どこかで「エイヤ!」とシンプルに切らざるをえません。たとえば、効果となると、トレーニング前と後に比較ができるような指標をとらざるをえなくなります。

 人間は、わかりたいし、わかりやすいほうをよいと思うので、自ずとそういう方向に進んでいくのです。そういう方向に進めている人が評価を得ているとそっちへ行きたくなります。組織ができるといつ知れず、それが固定観念となっていきます。例外を許さなくなっていくのです。ミュージカルや合唱団なども、その傾向が強いですね。何にあっても「道」というものがつくられやすい日本人は、一糸乱れぬことに美を見出そうとする意識が強いように思います。

 

 一般の人だけでなく、さまざまなトレーナーや専門家がここを訪れてくださいます。それが、固定観念を妨げてくれるところがあります。

人は、正解を求めてくるのですが、私は「そんなものではない」と述べています。

 私の本を読んできた人も、同じことを聞くことがあります。つまり、突き詰めると「でも、正解は?」

 これについては、レッスンという場も、時間が限定された特別な空間として、ある目的をもつ場合での仮の答えとして考えるしかありません。トレーナーに接する時間や場を共有し、ヒントを得るために使うことです。

フォームと基礎

 スポーツでも、フォームを教えてもらったところで、それをキープする感覚や支える体、筋力を身につけていかないと、自己流のくせのあるフォームに戻ります。

 知らない人よりはましかもしれませんが、できないのは同じです。こういう人は、しゃべるとまっとうなことを言います。ヴォイトレのトレーナーにも、そういうトレーナーのレッスンを受けた人にも、そういうタイプの人は少なくありません。わからなくても、説明できなくても、できていれはよいです。

 息の吐き比べ、声の伸ばし比べでもよいでしょう。息での声のコントロール力だけでも、その違いは一目瞭然です。

息を吐けたからといって偉いわけではありません。歌やせりふがすごいこととも違います。ただ、基礎というなら、比べるとわかりやすい。試合でなく、野球の素振りやサッカーのリフティングだけみせて差がわかるというようなものです。

本当の基礎の差はせりふや歌でなくとも、一瞬の呼吸、声でわかります。そういうことが直観的に感じられない人が多くなったのは、困ったことです。

 その人の動作や体つき、たとえば、筋肉の付き方からだけでもわかるのが、アスリートの世界です。もちろん、スポーツにもよりますが…。それでも、走ることなどを除くと、スポーツは、楽器のプレイヤー同様に、かなり特別なトレーニングを長期にわたり、続ける必要があります。

 それに比するのは、ポップスよりは、声楽や邦楽の世界でしょう。そのためもあって、私のトレーニングのベースの説明は、そうなっていったと思うのです。

余裕と余力

表現するには、ギリギリの基礎より、やや余裕をもって余力のあるくらいに身につけておいた方がよいということもあります。

より早くより強く身につけられる、これが私の考えるヴォイトレ、つまり、トレーニングです。

ふつうのヴォイトレは、「胸式を腹式に切り替えましょう」レベルですから、何年たっても、結果として、あまり身につきません。1、2回でも、あるいは1、2ヵ月でも、そのような感じにはなります。緊張気味のレッスンで、少しゆるめたらそう感じるだけです。パンに飽きて中華を食べるとうまいと感じるようなものです。日常での少し運動したあとくらいの強さの呼吸にすぎないのです。他のスクールからきて、腹式呼吸や腹から声を出せるような人は、10人に1人もいません。日夜トレーニングしていないのですから当然です。

 トレーニングでも、その必要性も高めていないと何年たってもそのままなのです。

腹式呼吸を例に

 たとえば、呼吸法だけでも変えたら、発声は今までよりうまくいかなくなります。声を変えたら歌もうまくいかなくなります。といっても、肺呼吸をエラ呼吸にするわけではないのです。

 トレーナーは「腹式呼吸に切りかえなさい」と言うのですが、「胸式と腹式を併用して呼吸しているのを、腹式をより働かせられるようにする」ということです。「より高度の必要に使えるようにする」ということです。

 「長く伸ばす」とか「大きな声を出す」とか、「楽に出す」というのが進歩としてわかりやすいので、目的にされます。本来は、「より繊細にコントロールすること」「息から声に、より確実に変え、理想的に共鳴し、それを支える」ということです。

 「より大きな必要に耐えられる」ように、胸式呼吸でがんばると、肩や胸が上下にも動いてしまうので、発声に支障が出ます。それを抑えられたらよいだけです。お腹で横隔膜あたりで対処するのです。

それは発声のためという、生命のためとは異なる機能で強く求められたために生じたことです。そのために呼吸法、呼吸トレーニングがあります。といっても、それも日常の延長上なのです。より大きな表現、より大きな必要性があって身につくのが理想です。

 「○○法」とかいうように、特別のメニュをつくるのは、そこだけに要素を分けて、集中するためです。

即興的効果の限界

現実にステージをやっている人がくると、今さら土の中にいる蝉のような潜在期をもつことは難しいのが現状です。オーディションや大きなステージ前には、柔軟的なこと、調整以外のことは、薄めてステージに差しさわりのないように、用心しなくてはなりません。「ヴォイトレをやったら、へたになった」と言われかねないからです。だから、柔軟、のどの調整がヴォイトレのように思われるようになってきたのです。

 ワンポイントアドバイスなら調子がよくなるのですが、根本的に変えていくようなトレーニングをすると、一時的にバランスをくずし、調子の悪くなることもあります。

 自己流で泳げている人に、コーチが正しいフォームを教えたら、一時は、泳ぎにくくなり、記録も上がらなくなくなるでしょう。ふつうは、バランスがとれず疲れます。

ここでメキメキよくなるのは、自己流というのがひどかった人だけです。そういう人がヴォイトレにも多くなってきているので、問題がややこしくなるのです。

ここで正しいというのは今日結果が出るので正しいのでなく、将来、今とは比べられないくらいに飛躍した、よい結果が出るので正しいということなのです。それを今日だけでみるなら間違ったフォームとさえなります。

音大リスク

研究所では、発声については、ある面では、音大やスクールよりも効率をよく伝えられていると思います。発表に重点をおいていない分、そのためのロスを基本の声づくりに集中させられるからです。

 研究所には、少なくとも8つ以上の音大の声づくりのノウハウをおいています。

 これは、私一人が教えることとはケタはずれにパワフルな体制です。

「一人のトレーナーの考え方や方法、嗜好で結果が左右されるリスク」が防げます。

 トレーナー同士が話しあえば何事も解決するわけではありません。それを徹底していくと、意見、見解も分かれることでしょう。それでも本人に多角的な気づきを、早くたくさん与えていくこと、同じ期間や同じ練習に対して、よりよく変えていける可能性が高まります。

活かすか育てるか

 レッスンの目的を個別(その人のオリジナリティ)のモデルか、共通の要素(誰にも必要と思われるもの)に重きをおくのかで、そのスタイルも大きく変わります。

 「誰にでも必要と思われる」ことは、オリジナリティの価値がある人ほど必要としないこともあるので、そこでトレーニングをどう考えるのかは大きな岐路になるわけです。

 たとえば、オリジナリティを重視するなら、その人の今の全部、歌い方を、作品、ステージ、音響も含めて、どう活かせるかを考え、声についてもそれに最大限必要なところまで伴わせます。これは、プロデューサーや演出家的な立場です。すでに選ばれたものを選んで絞っていく、即戦力として役立てるためのレッスン=調整なら、これでよいのです。

 しかし、育てていく立場なら、その人中心に考えます。その人のよいところが活かされる(基礎の徹底)のと、仕事になる(求められる)ことは、必ずしも一致しません。

 私はその一端として、声楽を音大にいったつもりで学ぶようなトレーニングをお勧めしています。

沈黙のレッスン

教えないで気づかせること、それまで待つ沈黙のレッスンこそが、もっとも本質なものと思います。教えないレッスンが成立するには、生活からの表現の感覚が磨かれているか、磨かれてくることが大切です。

教えられることがレッスンだというのは、私からみると依存症です。今の日本の教育を受けたらそれも当たり前となった人がくるので、成り立たせることが難しくなります。商品のように「払った分、ノウハウを教えろ」となるからです。

ことばで言うのは簡単ですから、多くのトレーナーはすぐに教えます。教えていると楽だし、気持ちいいし、時間も早く感じるから、先生というのはとかくしゃべりたがります。求められないことまで話してしまいます。その方が生徒の受けもよくなり、充実したレッスンになります。しかし、これこそが虚構のトレーニングなのです。

私はトレーナーに「話すな」「理論を言うな」「教えるな」「やらせてなさい」と、時折、注意します。力のないトレーナーは知識や理論を使わないと間がもちません。

最初はしゃべれなくても慣れてくるとしゃべれるようになります。受けがよくなり、2、3年放っておくと話がとても多くなる。自分が学んだり、他で気づいたことを話しまくります。本人の気づかない慢心も出ます。私はそれをメッセージや会報ですませるようにしています。文字にするとフィードバックができるからです。

ステップとメニュ

 歌でもせりふでも、歌手でも役者でもかまいません。

 何かをチェックするということは、一つ下に戻って、支えるためのそれぞれの要素を、より確実に行なう、行なえるように調整したり、鍛えたりすることとわかります。

 歌は、歌としてみるのですが、そこでチェックしたり直したりするのではありません。そこでの問題を一つ戻って、それを成立させる各要素の成り立ちのありようをみるのです。

 ヴォイトレというのは、歌のありようをみて、それをバランス調整するだけでなく、どのありかたなのかを根本まで遡ります。たとえば、舌や軟口蓋や喉頭の位置などをみて直すようなのは、こういう理由です。

 

 トレーナーは、表現をみながらも、その基礎のところまで、いくつかのステップを戻ります。連続的に、かつ構造的に捉えていくのです。医者の診察のように仮説をたてながら、不足している情報を得るために、メニュ(この場合は、チェックリスト)で本当の問題をあぶり出していくのです。あるときは部分的により丁寧に絞り込んでいき、包括的にみます。

 何かを習得させるためにメニュがあるのではありません。問題を拡大して本人に気づかせ、自ら修正できるようにするために、メニュを与えるのです。レッスンは気づかせること、ピアノを弾いているだけでも、スケール範囲、テンポなどをいろいろと変え、気づかせようとしていきます。

成り立ちのありよう、ありかた

まとめておきます。(詳しくは「声の基本図」参照)

基礎←→応用

自分←→相手

積み重ね←→飛躍

これらは左から右へいくのでなく、インタラクティブ(双方向性)です。

 ヴォイトレは、体から声へ、そして、自分の声へ進んでいきます。

 歌やせりふは、表現の必要性から声を引き出していきます。

 

レーニングでは、地力、底上げ、再現の確実さ、徹底した丁寧さを目指します。

 レッスンには、いろんな目的があります。私のレッスンについては、内容としては次の4つが中心です。

 

1.日常のトレーニングのチェック

2.声のチェック―体、息、発声、共鳴、それらの結びつき

3.表現のチェック―声を中心としたオリジナリティ

4.ステージのチェック―表現を中心としたオリジナリティ

独自のフォームへ

声は、体が楽器です。そこで、共通して人間のもつ体というところで、あるところまでは共通のトレーニングができます。能力、体力、集中力、呼吸など、他のことで共通している基礎といわれるものがあります。

 そこからいつかは、独自のフォームを持つ世界へ入るのです。野球でいうと王、張本、野茂、イチローといったところでしょうか。

 オリジナリティとは、他人がまねられないフォームの確立のことです。その結果による実力が一流の証明です。

歌やせりふはアートで、スポーツより自由が効くので、本質のが見抜きにくいです。見抜く人は早くオリジナリティの壁につきあたります。見抜けない人や、他人のようになりたい人は、異なる壁に突き当たります。見本のようにはパーフェクトにできないという不可能の壁です。

 そこに優劣の基準を設けることは難しいことです。人の好き嫌いというもの、ファンという移ろいやすいものに支えられているとするなら、エンターテイメントとしてみるしかありません。

 とはいえ、何でもOKです。よいものは人に伝わり残っていきます。そういうものを価値とする、というのは結果論です。

 そこまで考えると、ヴォイトレのよしあしも申せません。いろんなメニュや方法で、いろんなトレーナーや関わる人がいるという状況で、私もよしとしているのです。