ヴォイトレを中心において、その一方に、心と体をもつ―人間という、人類の芸道に共通する体(呼吸)という器があります。そしてもう一方には、国を越えて世界に、時代を越えて永遠に、価値や感動を与える表現という作品があります。
私が研究所と名付けたのは、声や喉の指導をするところというからではありません。この両極を統合していく研究こそが、ヴォイトレを確かなものにすると思ったからです。
一、二年後には古くなるようなプロデュースに、関わらなくなったのも、この普遍的真理への追求があったからです。自分の夢を賭けた人が集まったのが、当初の研究所です。
ということで、私は、一流アーティストといらした人を直結させるナビゲーターとしての役割を果たしてきたつもりです。日本ではあまり評価されないマルチクリエイターとして資金繰りをつけたのも、そのためです。
90年代、ライブハウス型のスタジオを構え(バブル期、代々木の表通りでは、維持費で坪3、4万円したのです)、2段構えの内装を含めると億単位にかかりました。そこに集う人のために私が奔走しました。研究所の収益は、この活動維持と研究のために、資料やコレクション収集と自転車操業でした。
どんな仕事でも引き受けました。月謝で生計を立てていたら、言いたいことも言えません。研究所維持のために辞められたら困るというのでは、お客さんとの関係だからです。厳しいこと、言いたいことも言うために、私はほとんどを他で稼ぎ、つぎ込んでいました。外ではビジネスアーティストといって、日本にできてきた文化研究所の嘱託や、アミューズメントの会社などの、ブレーンアドバイザーを複数つとめていました。
若手のベンチャー起業家なども、私は、歌手よりアーティストっぽいということで、面白く感じたのです。私のブログ(fukugen「追悼スティーブ・ジョブズ」2012/01/23」)に、アップル社のことによせて、入れています。
研究所は、マルチメディアスタジオだったのです。集客し感動させて、またリピートする。その時代、企業が求めていたのもまた、舞台の、アーティストのノウハウだったのです。
代々木では当時、オウム真理教も活動していました。90年代、内部を組織化していくと、ビジネス的とか、宗教くさい、という批判も出てきました。別にビジネスでも宗教でもよいのです。
要は、そこにどんな人が集い、そこから外に出て、どう活動していくかが問われることなのです。ですから、こういうところは、そういう人が集まらなくなった時、いや、そういう人が人材として外に出なくなったときに終わるのです。