私は、基礎だけのレッスンを好むのも(ヴォイトレにくる人には)よいとは思っていません。基礎がなくては表現できないのではなく、表現の必然性が、基礎のレベルを高めるからです。
自分があり、自分の世界があり、表現に結集していくのです。最初からそんなことは、よくわからないから、基礎をやって、テクニックでなく、自然に声が出る、自由に声が出る、おのずと人に働きかけるというのもありです。表現するのでなく、表現手段を得て待つことになります。普通は十代の時期にあたります。
声は、あてるのでなく、あたるのです。トレーニングだから、方向づけ、意識づけをするのです。
「今すぐできるようにするから問題」なのです。将来大きく確実にできているようにするのに、急ぎすぎないことです。その結果、少し先に行くと同じところをぐるぐる回っている人が多いからです。一冊の本から学ばずに、何十冊も読みっぱなしにしているのに等しいです。
同じことのリピートが力をつけるのですが、リピートに飽きてしまうのはメニュや方法のままだからです。意識が基礎に厳しくないからです。細部の発声が変わり、気づいていくのを待ちます。同じものが違って聞こえたり、異なる感覚で発声できてこそ、一歩なのです。
どうして、こんなに誰もが見えるもの、わかるものしか求められないようになったのでしょうか。
誰でもできていることなら、誰でもできています。あなたが今の力で少し変えてできるくらいなら、もうほとんどの人ができています。そういう日常で埋まるくらいの小さなギャップでは、トレーニングの意味はないと思ってください。1、2か月で学んだものは1、2か月で忘れ去られていきます。それでは体力づくりと大して変わらないでしょう。