声、ことば、歌は、日常のところに帰る必要があります。でも日常では、それゆえに、ふしぜんにできません。そこでトレーニングします。日常を変えることもトレーニングという必要悪においては可能なのです。
特に日本の場合、歌やせりふが、その人の日常に求められるものでないのです。別に形づくられ、そこから判断されるのでややこしいです。
私はヴォイトレで、その人の声、その人の歌の復権を意図してきました。業界の求めるものでなく、本当の意味でのその人らしさです。この「らしい」さえも、日本では形が優先されます。
そこがよくわかる例の一つは、ミュージカルの歌です。ブロードウェイと比べてみましょう。本場のゴスペルと日本のもの、合唱団などと比べるのでもよいでしょう。