日本語の勉強を、文法で捉え「主語」での欠陥を指摘する人がいます。「主語」のような概念は、欧米の言語学からきたもので、そこからの分析で日本語のよしあしの判断はできません。日本語にとって不利な分析となります。
国の将来の経済方針をアメリカが作り上げた経済学で、日本の社会に当てはめても当てはまらないし、使えないのと同じです。
欧米のベース(言語、リズム)の音楽を、日本語をつけて歌っても、日本人の声や感覚の根のところにあるものには、簡単にはならないのです。
私が、日本人のオペラやミュージカルに反射的に入れないのは、それが日本人でないものを具現化したままだからです。クラシックは古典としてグローバルなものになり、多くのミュージカルも違和感なく感動させられます。問題は、日本語で日本人が演じているところです。演目が向こうのもののままであるときは、それを超えて個人の声がリアルに働きかけてこないという、現実のパワー不足が第一なのでしょう。