夢実現・目標達成のための考え方と心身声のトレーニング(旧:ヴォイストレーナーの選び方)

声、発声、聞くこと、ヴォイストレーニングに関心のある人に( 1本版は、https://infobvt.wordpress.com/ をご利用ください。)

声楽界の見取り図

以前、ここにいらっしゃる人のほぼ9割は、ここで初めてヴォイトレを経験しました。そのとき、私は歌をうまくするのでなく、声をトレーニングする、ということでスタートしたのです。応用を自分で学んでいない人が増えると、こちらが手伝わなくてはいけなくなり、サブのカリキュラムが増えていきました。いつ知れず、音楽スクールや専門学校のようになりつつあったのを経験しました。

 いらっしゃる人の望みにストレートに応えていくとそうなるのです。こちらも若かったのでしょう。そこで、どんどんと人が増えていきました。何でもサポートすると、サービス業化していきます。最終的には、発表会プロデュース業になっていくわけです。そして、声という原点が忘れられてしまう、先人たちと同じ轍にはまっていきかねなかったのです。

 そこから抜けたのは、この分野も広くなり、今は半分以上の人が他でヴォイトレをやってからいらっしゃるからです。プロよりも一般の人を対象にトレーニングすると、また、同じような轍にはまりやすくなるのですが。

 ここのトレーナーのレッスン内容を把握すると、日本の今の声楽界の見取り図ができます。ここの生徒さんの他で行ってきたレッスンを把握すると、ほぼ全国のヴォイストレーナーや指導者の見取り図ができます。ここには、日本の声の指導の膨大なデータベースが備わりつつあります。セカンド、サードオピニオンのできるバックグランドは、このデータベースです。

ヴォイトレの問題

「問題として扱わないことが問題」これは私がヴォイトレの問題として、これまで、とるに足りないことを「問題としてしまうから問題になる」の反対ですが、両方とも問題です。

 私からみると、声の分野は未成熟で、その表現の世界である歌、演劇などからみても若く、層の薄い分野です。「話し方教室」のようにストレートにビジネスマンや一般の人の能力アップに位置づけられるだけのステイタスも歴史もありません。

 プロで活躍している人がたくさんいる分野からみると、趣味やサークルのようなものかもしれません。ただ、昔よりは本気の人が増えてきて、それはよいことなのに、人材の層が薄く、レベルが高くないために、いつまでもビギナー市場のようになっているのです。

 本やネットで知識を得ても、扱うのは人間の体や感覚です。机上で解剖学辞典を頭に入れたヤブ医者や学生のようなレベルでは、受け手(レッスンしにくる人)と似たようなものですから、批判はしませんが、その位置づけやレベル、自らの力(自分の芸の力でなく、人に対しての力)を知ることができていないと思えるのです。

問題なしの問題

ヴォイトレなのに声が不在というのを、私が述べるのは、「医者に殺されないための本」を医者が書くようなもの、CIAのエージェントがリークする内部告発とはなりましょうか。

 私はトレーナーの不正や非を訴えているのではありません。薬をたくさん出してくれという患者に、好きなだけ出す医者は儲かりますが、トレーナーはそんな自覚も不正感も持っていません。その医師は、相手の体調が悪くなることを知っているなら大罪です。非難されてしかるべきです。でも、人により効果はかなり違うものでしょう。

 私も、トレーナーというか、私自身もここのトレーナーも含めて、非難の対象としていません。

 しかし、トレーナーは「こうしてください」に対して「こうしました」そして「ありがとうございました」とお礼を言われてwinwinで、何ら問題はなし、というのが問題なのです。これまで他の業界で起きるような改革もあまり聞きません。質も高くないし人数も多くないこともありますが…。

優先度と重要度の違い

仕事である以上、現場で要求されることが早急の課題となるのはしかたありません。私どもも、3~6ヵ月後のデビューやオーディション、1ヵ月後の結婚式の余興まで、真剣に全力で対応しています。

 しかし、この優先度に振り回されている限り、もっと重要なことが後回し、遅れるというならまだしも、その可能性がスルーされたり、損なわれることも現実に起きているのです。

 芸道やスポーツなどでは、器用さで、早く頭角を現したものの大成しない例はいくつもあります。才能や努力を評価するのは難しいところですが、後で大きくなるための基礎と、その時点で凌ぐだけのやり方は逆になることがほとんどなのです。

 しかし、日本では若い時期のチャンスを優先する、実力がなくても若さで出られる、実力のないのが若さだから、それゆえ出られる。それが、歌い手だけでなく、声優、アナウンサー、タレント、役者に蔓延しています。それゆえ、若い歌手の素人声、「ジャニーズ声」というと、わかりやすいでしょうか、は誰でも出せるということです。大人になってもそう変わらないのです。彼らは、声の魅力で売っているのではないから、その必要もないのですが。

ヴォイトレの対象

ヴォイトレの対象は、簡単にまとめると、音色がメイン、声域(基本周波数ファルセット)、声量(音圧)、発音(調音)はサブ、メリハリ、間といった、せりふの要素や音程、リズムなど、歌の要素はかなりの応用ですが、呼吸という基本と直結しています。

 プロデューサーが、よく「ヴォーカルは声が絶対、それだけで選ぶ」と言っていますが、それは音色であっても、音楽的な感性をからめた歌唱時の声の共鳴の具合と働きで、必ずしも声そのものはそうではないのです。

 ヴォイトレで、音楽的な声にすることさえ、ほとんどやっているところはありません。音程、スケール、リズムの練習をしてカラオケの得点を上げるような結果を求めているからです。

 トレーナーも生徒さんもそれを求めるから、当然、トレーナーもそうなっていきます。

私たちのように、それを想定しない方が稀有の存在です。声そのものと、歌唱の声も異なりますが、どちらも(あるいは、どちらかが)大切なのです。しかし、両方ともあなたのヴォイトレの対象になっていないのではありませんか。

声への成果

責任がどちらにあるのかが、サービス業との違いと思います。なかには、金を出すから早く身につけたいと、殿様気分でいらっしゃる人もいます。そういう人は、しゃれた街の大きいビルの、受付嬢が3人くらいいるところに行くとよいでしょう(私の、日本にある英会話の学校などのイメージです。どこかのスクールを揶揄しているわけではありません。そこまでヴォイトレは、ゴージャスなところはないような、あったら是非、お招きください)。

 ヴォイトレは声のトレーニングですから、トレーニングすると声に成果が出るものです。副次的に、声量、声域、共鳴、発音、表現、歌、せりふなどに完成度が得られるのです。これらが目的なら、声量トレとか高音トレとかでもよいでしょう。目的としては、声そのものより、その使い方、機能、あるいは、声からはるかに離れた表現らしいテクニックになってしまうわけです。何に成果を求めるのかをはっきりさせていくことが大切です。

ぶれない

トレーナーとしては、よくも悪くもスタンスがぶれない人を、私は一緒にやっていくための条件にしています。あとは、そのトレーナーに合う人、いや、生徒さんは、ここの場合、千差万別どころか、ヴォイストレーニングの枠を超えていらっしゃる人もけっこういるので、多種多様なバリエーションがあるのが好ましいわけです。

 邦楽出身のトレーナーは、他のヴォイストレーニングのスクールにはいないでしょう。役者、声優(今ではアナウンサーも)必修の「外郎売り」の口上なら、古典芸能の方が専門で本職なのです。

 基礎の基礎レッスンや本物のレッスンを、となると、私などが口上の指導をするのはビギナー向け、企業研修くらいならよいのですが、お門違いです。

 入門から本物に触れていくのがよいに決まっています。ということで、外部のスタッフも充実させています。しかし、どんなによいトレーナーを整えても、本当の問題が学ぶ人にあるのは、確かなことです。

批判・反論しても

同じことでは、ずっと読んでくださっている人に失礼なので、もう少し踏み込みます。

 私は、現場での、現実対応を強いられてきて、それゆえに続けてこれたトレーナーです。基礎のための基礎について、理想論とかきれいごとは言いません。

 歌い手や声優にも、声より大切なものがあれば、声を捨ててでもよいと伝えます。声や歌のよさだけで、判断されることばかりではありません。安直に「どの声がよい」とか、理想や見本として、「正しいのはこれだ」と決めたり、押し付けたりすることを用心しています。

 私は、私以外のトレーナーや外部のトレーナーのやり方を批判しているのではありません。そのよいところも悪いところも含めて、研究所のなかで実践しようとしています。まずは、取り入れることがもっとも大切だからです。受け入れるところからスタートだということをわかってください。

 トレーナーのメニュや方法をとりあげて、その正当性など論じるのは、ばかげたことです。7割くらいは当てはまるというのが一般論ですから、そこを論じても部分にすぎません。

 何パーセント高めるとかというのは、論じられる対象ではないのです。方法、メニュ、判断についても、ある条件下でしか、突き詰めることはできません。その条件は記述しきれないのです。ですから、どんな理論にも反論はできてしまうのです。

原則ルール

声に取り組んでいる人に、共通して言えることがいくつかあります。全ての人が悩みから救われるとは言わないまでも、うまくいかないのは、その人の考え方の掛け違えとわかるように思うのです。その原則とルールを示します。

1、 基礎と応用は違う。よってトレーニングと本番も違う(レッスンの位置づけは、それぞれです)。プロデューサーや演出家の、よしがだめ、だめがよしということもありえます。それに対して、本質的なトレーニングは、ブレもせず判断と矛盾しません。他人の言うことが気になるものですが、切り離してトレーニングに専念することです。スポーツなら、体力づくりやフォーム改良と試合を同時に同じようにする人はいないです。オンとオフで、目的もやることの判断も異なります。a、bを分けておくことです。

a、トータル、総合、無意識、調整、しぜん、リラックス

b、パーツ、部分、意識的、強化、無理、ふしぜん

 

 レッスンも本質的、基礎の基礎、本格的になるほどに、感覚や体の内部的なところからの掘り下げになります。無理をしぜんに、非日常を日常に。

相手を知り、我を知る

私は、ずっと同じことを述べてきました。手を変え品を変え、今も同じことを述べています。時代や相手が変わったとはいえ、このロスをなくしたいために収録して、いつでも読めるようにしています。

 真実を知るのでなく、真実をみる眼を養うために古典、歴史から学びましょう。ずっと続けていると、この分野では、私のも古典になりつつあるのでしょうか。前に出した本を改め続けていくと、初めて出された本より、歴史的に磨かれているでしょう。

 いろんな人に振り回されているうちに、本質を見抜く眼が育つならよいのですが、私の経験では、それには、量や時間が必要です。さらにそれだけでは無理です。

量から入って質を得ていく人もいます。たとえば、子供のころの遊びや学習などでは、量でよいのです。しかし、大人になると、その量がとれないから、効率を考えます。ところが多くの場合、そこで理論や知識に振り回されてしまうのです。1回で100のことに気づく人も、100回で1つのことに気づく人もいます。後者は、100回くり返していくうちに10回で1つ気づけるようになります。しかし、100回で1も気づかない人もいます。そういう人が学ぶには、どこかで学び方を知っていく必要があります。そのために学ぶのです。

敵(目的、対象)を知り、我を知ることです。

アグレッシブ

いいところよりは悪いところをみてしまう。これは日本人のペシミスティック(悲観的)好きに通じるものなのか、本やネットなどで表面的なことばかり知るためなのでしょうか。その結果、増加するのは不安だけではないでしょうか。それは、今の世界的な傾向かもしれません。現実にサッカーより教育費と言うようになったブラジルなどもアグレッシブです。私も「欧米やアフリカ、アジアなど他の国の人々に学べ」と言うごとに、冷やかな視線を感じますが…。

 創造というのは、主体的なものです。声についても学び方よりもスタンスを間違えないでほしいということです。

 志して「より高く」「より強く」を掲げましょう。「より正しく」「より安全に」とか「よりよく」「よりうまく」「より美しく」「よりきれいに」でなく、「よりおもしろく」「よりすごく」にしましょう。「当たり前」のことをやるでよいと思います。

 過去に認められたものから、何年か先の世界をみることです。

 今のものなら、未来志向にすること。今のあなたではできないからこそ、将来のあなたをヴィジョンとして描き、そのギャップを埋めるべくトレーニングするのです。そのためには「学」でなく「論」を基にすべきです。例えると、目指すべきは地球学でなく、宇宙論なのです。

学でなく論

私が一貫してヴォイトレ論で試みているのは、学問としては、未だ成立しえないものだからです。しかし、常にその方向へアプローチしているつもりです。その上で、「成立しえない」のだから、それに振り回されないようにアドバイスしています。

 声楽もまた、声学とはなりえていないのです。発声に関する学会はあるのですが、学問のレベルで行われているのかは疑問です。

 データとして出しても、ほとんどは少なすぎるサンプルで、データも人数表だけです。データの間で推察したり、再現性のある実験(同じ条件での再検証を第三者が行うようなこと)で科学的なものとして、客観性を得ていないからです。

 とはいえ、同一条件で行うとなると、歌やせりふでは、データに囚われてしまいかねないので、本質的に「学」とはそぐわないものかもしれません。わかりやすく言うと、「科学や学問や知識、部分や中途半端な基礎や順番などにこだわると、限界や可能性のなさばかりに囚われる」ので気をつけなさいということです。