夢実現・目標達成のための考え方と心身声のトレーニング(旧:ヴォイストレーナーの選び方)

声、発声、聞くこと、ヴォイストレーニングに関心のある人に( 1本版は、https://infobvt.wordpress.com/ をご利用ください。)

教育ビジネス

夢がかなわないのではなく、真の実力が身についていっていないだけです。

 この点については、クラスで平均点を取れたらよいとか3年続けたらよいなどという甘いものではありません。だから「わかりやすい」とか「やさしい」などというCS(顧客満足度)においての生徒の評価などに、教えるレベルを合わせてしまうと、10年経とうと1000人であろうと、1人でも育たなくなってしまうのです。トレーナーがいかに優秀でも、育てようとするから育たなくなるともいえます。

 「教えてくれない」とか「わからない」というくらいで、「他人の答え」を求めていてどうするのでしょう。自ら学んでいく力がある人か、学べるように力をつけた人だけに先があるのです。生徒の尺度で考えて判断できてしまうようなものなら、その先に価値になるものなどないのです。「誰でも時間をかけたらできるレベル」で終わっては、その先がないのです。知識の反復で受ける資格試験のように考えないことです。

 でも今の日本人の大半は、そういうところしかみないで動いているといえます。「レッスン○回を〇〇円買っている」から、「毎回、その分の価値」という交換のような消費者感覚だからです。サービス業と堕したかのように、スクールやトレーナーが、生徒に応じることが何であれ大切だと思っているからです。それは、教育ビジネスのプロですが、生徒はいつまでも生徒であり、消費者にしておくこと、ゆえにビジネスモデルなのです。

 

真逆へいく

真理は、自分も超えているというのがわからないなら、自分の考えると正反対、真逆な方向がよいということです。多くの人ができないことなら多くの人の進む方へ行かないことです。理解を超えるという意味では、逆の方があなたの可能性を大きく開く確率は高いのです。

99パーセントの人は、自分の意にそわないものを選びません。ゆえに身につかない、大した力にならないとみればわかりやすいでしょう。

 それなりに学べている実感があり、そこそこに満足してしまう環境が最悪なのです。☆目標が具体的にこなせるように、あなたに合わせて下がってきていると、そこに気づかなくなっていくのです。

 ヴォーカルのスクールや声優のスクールで一時、がんばって目立っていても、10年あとに続いている人は1パーセントもいないのです。決め手となるのは素質ではありませんが、学び方の素質というべきかもしれません。

 

カラオケ化するヴォイトレ

本当に学ぶというのは、自分の理解をはるかに超えるところに学ぶということです。すぐれていく人は、海外の一流のアーティストのステージや作品にストレートに学んでいます。ヴォイトレなら「どうしてあのような声が出るのか、まったく理解できない」「実感できない」から、「実感できてきたが、できない」が「できないのができるようになるのがイメージできる」。やがて、「これだけ足らないとみえてきた」となっていくものです。☆

 この分野は、アーティストでも、一般の人にわかるようにレッスンするとなった途端、適任者でなくなります。ストレートから濃縮還元になるようにです。

カラオケ教室や本やDVDなども同じです。何でもないよりもあった方がよいのですが、それで人が育つことはありません。あればまし、という点では教育のノウハウです。それを100パーセントこなしたところで、必要の1割に達しないと思ってください。

100パーセント

他のスクールで、ヴォイトレで歌い手が伸びないと相談を受けることがよくあります。大体は、本人が100パーセント出しきれていないからこそ、全力でやるべきなのに、それをトレーナーを「お目付け役」として使っている感じです。家庭教師で例えると、机の前に生徒を座らせていたら、成績が伸びていくレベルです。教室で先生の話すことをまじめに聞いたら、普通にできるというレベルです。問うレベルが低すぎるのです。それでは頭に入っても体には身につきません。

 私は、状態と条件ということで分けています。ヴォイトレのほとんどのレッスンは、状態の変容を期待するのに過ぎないのです。これでは、自らの声を100パーセント出したところで、出ただけでどこにも通用しません。それで、そこまで行かずに6割くらいで歌えるようにまとめるという、先のない指導が行われています。出せない声をさらにセーブして、使い方でしのいでいるのです。即効的な対処では、いずれ行き詰まり通用しないという、当たり前のことをふまえていないのです。100パーセント出させるのさえ、「お目付け役」は制限して、その場をしのいでしまうのです。全力を尽くすことなくして実力はつきません。

伸びしろ

「声は日常の中にあるから、楽器のようにいかない」ということは、先生やトレーナーを選んだり、方法メニュを選ぶのにも、思っている以上に難題となってくるのです。

 まして自分の性格、個性や評判などを気にするようになり、本やCDや、ネットの多くの情報に翻弄され、自我ばかりが大きくなってしまうと、もはや、伸びしろがほとんどない状態にあるわけです。

 自分の力をつけたい、変えたい、変わりたいから学ぶのであるなら、今の自分自身の学びの限界を破るのが目的であるはずです。それを自分の頭で考え判断するのは、自分で考えられる限界のなかで動くのだから大して変わらないということなのです。

大きく学ぶには、選ばない

自分に身についていなくて相手に身についているものは、自分には判断はできないのです。それを判断できるトレーナーを選ぶのに、自分ですぐにわかると思うくらいなら、それは身についても大したものではないといえます。

 大きく学ぶことは、大きく自分を変えることです。ですから、エイヤっと直感的に当たっていくしかないのです。決心のための勘と踏み出す勇気がいるのです。

 あなたのこれまで人生経験の判断を元に「正しく」選べるくらいなら、きっと声などという、学ばなくても身につく、身についている人もいる分野では、すでに身についていなくてはおかしいでしょう。そこは手ほどきを必要とする楽器などと大きく違うところです。自分だけで選ぶときは、再度、あまりうまくいかない可能性が大きいようにも思うのです。

 それを変えたければ大きく、あまり選ばずに学ぶことです。トレーナーの人選なら、あなたが選ぶよりも私が選んでお勧めする方が適切なはずです。そこで、研究所では、あえて、私が直接レッスンを引き受けるのでなく、私がその人に好いと思うトレーナーを二人つけてスタートさせているのです。それで大きく変じること、勘をレッスンで磨くことです。その学び方をレッスンで得るのです。

身につくということ

本当に身についていることの結果は、身についているのですからそれで全てです。そこで価値が周りに感じられていればよいのです。他人に与える価値ということなら、他人がそれを感じていればよいのであり、本人は知らなくてもかまいません。それでやっていることがうまくいっていることが、身についていることです。

 「身についていますか」「できていますか」など聞かなくてもよいのです。聞かなくてもわかるものであり、わからなければ、それだけのものです。

 聞かなくてわからない人もいれば、そうでない人もいます。みせなくては出てこないとか、伝わらない人もいます。どうであれ、自分の伝える相手が認めればよいことです。日常、しぜん化していくのです。

 ふしぜんなのは、身につけようとするからです。それを早くとか、他人、先生とか師とかトレーナーから学ぼうとするからです。それを特定の相手、あるいは、不特定な人々に、特別に認められようとするからです。不特定、と言っても、実のところ、仕事なら仕事をくれる相手と、その向こうの客と特定すればよいのです。

目標のつくり方

目標設定は、今の立ち位置を捉え、目的地(心、体、発声、歌、表現、すべて)を設定することです。これに数年かかることもあります。

1.強化、鍛練、基礎、体、呼吸、声←役者レベル

2.応用、チェックとアドバイス、感覚―耳←声楽レベル

声そのものは、表現においては媒介ツールであるだけに曖昧です。これをいかに明確に具体化していくか、それがレッスンの目的です。

 生まれてから今までの育ちの環境と、今を取り巻く環境、それを把握しましょう。そして将来に対して有利に、年月とともに有利になるように変えていくことからです。

一流の歌との違い☆

世界レベルの歌い手は、ことばをメロディにのせて歌っているのではなく、歌との距離をとって、音の流れのなかで自由に声で表現を創っています。歌のメロディや楽譜にべったりとくっついていないのです。日本の多くのヴォーカリストは30代以降(世界では60代以降くらい)は、流れに心地よい声が使えなくなり、音楽にも距離が出て、ことばで投げ方、感情表出に固めに凝りがち、しかもパターン化するようになります。

 日本では、役者的なパフォーマンス力で、音楽性に欠けてフレーズ感が鈍っていても、インパクトとその反動の収め方でステージはもたせるのです。ステージとして、バックグラウンドに若い時からの音楽でつくった世界観が積み重なって、貫禄でもたせます。ファンが昔のベースを読み込んでくれるから楽しめるのです。ベテランになると、このベースへの観客の優しいノスタルジアでもたせることで満足しているかのようで、残念です。お客さんがナツメロとして満足しているならよいのでしょうか。

ロングトーンとビブラート

抑揚、ここでは、心地よいビブラートの意味ですが、これをつけるのに、強弱、高低、長短、艶(音色)の変化があります。それぞれ個別に試してみましょう。

 息から、発声=共鳴のところで、その効率をどのようにするかは、最大の問題です。これまで声の立ち上げ方(声立て)のスピード(息と声のミックス具合)として、硬起声や軟起声としかみられなかったところです。ハスキーな声やため息もありますが、それは表現での応用となります。

 私は、喉への負担で、リスク面から、嗄声は、表現(せりふ、シャウト)でのアプローチに限らせています。悪声や喉声も声優や俳優では必要でしょう。表現上での練習以外としてはタブーです。ロスの多い使い方をしたら、喉を休ませなくてはいけません。

 共鳴からは、倍音組成、フォルマントで母音の形成、子音の調音となります。呼吸の量、スピード、長さも変えてみるとよいでしょう。

トータルとしてみる

しぜんにするためにはふしぜんにする。力を抜くためにストレッチする。力を入れて脱力します。

人はやりたいことがあるのに、やれない。そのことが問題になる。やりたいことができないときは、やりたくないことをやることでアプローチするのです。

 練習も続けてやるのは嫌なものですが、続けてやるとよいのです。やりたいようにしかやらない人には大した力はつかないのです。

大きく―声量、声で体に負担を与え、支える

響かす―共鳴→必要以上に響かさない、声が通るための「声の芯」と考える

高く―声域、低く重く下に向ける(これはよく知られていますが、実行されていない)

長く―呼気のコントロールと声立て

私が思うには、声中心に考えると、せりふを言うのも発音もふしぜん、歌うのもふしぜんなのです。これがしぜんと思えたら、すごい歌、すごいせりふにつながる声が出ると思うのです。

呼吸の復活★

体の動かし方の再調整と強化には、呼吸を伴わせることが大切です。そのために吐ききってみましょう。発声のコントロールや呼吸保持などは、体から息の吐ける人が次のステップでやることです。ヴォイトレのメニュでは、最初から少ない息で丁寧に声にすることの大切さを説くことが多いのです。荒っぽく息を無駄に使っては、きちんと声にできないのですが、その息さえ、しっかり吐けているわけではないのです。何事にも量と質、全体での荒(粗)さと細部の丁寧さとは、相反するようで両輪のように考えることです。部分よりは全体から入るのが原則です。その両輪での矛盾から全体で丁寧に至るためにです。☆