夢実現・目標達成のための考え方と心身声のトレーニング(旧:ヴォイストレーナーの選び方)

声、発声、聞くこと、ヴォイストレーニングに関心のある人に( 1本版は、https://infobvt.wordpress.com/ をご利用ください。)

ワールドサイズで考える

歌や宗教をワールドサイズで考える視点が、日本では欠けています。ガラパゴス化を超えて、自家中毒になっています。それは批判ではありません。

時代や国、時間や空間を超えて通じるものであってこそクラシックということです。そうであろうとなかろうと、これは基準と基本を知るためには、大切なことなのです。

 アーティストに声の基本を強要したいのではありません。音大に行かなくてもプロになれた人は、音大に行った人より才能(努力も含めて)があります。音大を出た人こそ、そこに学ぶべき基本があるともいえます。

 それをクラシックとかポップスとかで二分したいのではないのです。長く多くの人たちを惹きつけるものには、根本に共通のルール、基本が宿っています。私が、このリストを前振りにして述べたいのは、根本、基本があることと、世に認められる大衆性を得ること、および芸術性との関係です。その成立についてです。

声に戻る

私の持論はこれまでも述べてきました。(拙書「読むだけで…」に、ヴォーカルのリストあり)

 トレーナーとしては、プロとしてやれている歌手のよしあし、好き嫌いはどうでもよいのです。そうでない人が誰をどう見本や参考にして、何をどう学ぶかということです。それは一概に言えないのです。相手(生徒)の目的やレベル、方向、優先すべきものによって違うからです。

 他のトレーナーのように「この人を聞きなさい」とは言いません。まして「この人は聞かない方がよい」とは、もっと言いません。どんなプロ、いやどんな人からでも学べる、学ぶ力がプロであること、それをプロのように学べる力をつけていくことがトレーニングです。 

 それでも、私がこのようなもので気がかりなのは、現在の日本人のなかでも、歌に耳があると思われている人の評価のあり様です。この評価のケースで出てくるプロデューサーや歌手、トレーナーは、今の日本の一端を代表しているからです。

 私なりのランキングは、声中心ですから違います。すでに今の時代、ヒットする日本の歌は声中心ではないので合わないです。それも踏まえた上で、声に戻ることが基本だと言いたいのです。ですから、いささかクラシックな考えになります。1960年前後のポップスなどでは、すでに50年以上経ち、当時のリアルタイムで聞いていたファンが伝えてきたとしても、クラシックになりつつあります。

 つくられたときにいた人がいなくても継承し続けたところでクラシックとすると、早くて80年、およそ100年経てからの評価です。著作権の切れたところあたりから後のことですね。

 時代を超えた、ということ、国を超えて自国のファン以外にも愛されてこそ、クラシックといえるのです。それは、このランキングでは、到底なしえていないのです。

「歌がうまい歌手」リスト

新年の週刊現代の「歌がうまい歌手」日本人で、プロデューサーたちが選んだリストをみました。その翌週には、歌手やヴォイストレーナーが異論を、それぞれに述べているのですが、私は、そこともスタンスが違います。結局、述べませんでした。

私としては、一般論ですが、歌手であれ何であれ、世の中でやれていたら皆それぞれによいという立場です。

 それは音楽、歌、発声だけの実力に限りません。そこは研究所のトレーナーとも違います。(レッスンでのスタンスというなら、レッスンでの声の可能性と限界においてみるようにしています)

 私のところには、マルチな才能をもつ人がたくさんきます。声を、何にどう使おうとでやれていたらよいと言っているからです。やれていなければダメということではありません。芸能であれ、ビジネスであれ、やれている人の声は、ひとまず肯定するというスタンスです。その上でどうするか、また、やれていない人は、やれるようにどうするかです。

 プロなら声で伝えている、その伝えているということを、ここでは広く深く捉えているということです。

 私もその一人です。歌とか朗読、アナウンスでプロでないと言われたところで、それは畑違いなのです。

 リストのなかに、知人もいるのであまり述べたくもないのですが、具体的でないと論じにくいので引用しますと、

 ヴォーカルランキング

1、桑田 2、中島 3、山下(達) 4、小田 5、井上 6、五木 7、沢田 8、都 9、石川 10、玉置 11、桜井 12、中森 13、松任谷 14、坂本(冬) 15、稲葉 16、布施 17、吉田(美) 18、高橋(真) 19、椎名 20、松田(聖) [週刊現代1月17、24日版]

 これに対して、次の号で、歌い手やトレーナーが異論を展開しています。

 

天然型の基礎

これまで、何事にも基礎があるということで、基礎への探求はなされてきました。それをメソッドとして学ぼうと学ぶまいと、人から教えられようが教えられまいが、身についているかどうかということです。それは、より早く、より高く(ハイレベル)、より深く、より長くなどのために必要ということです。

 しぜんと聞いて歌っているだけで、実力派の歌手になれた人は、そこに基礎も、必要なことも入っていたのです。聞いて声を出すだけでハイレベルに対応でき、つくりあげられた人です。

 そうでない大多数の人のために練習法、メソッドやトレーニングがあるのです。

今の私は、そこを突き詰めることが主になってきました。しかし、それに加えて、あまり論じられないことですが、一流やプロの力をつけるにはどうするのかということです。

 歌手や役者になった人でも、その実力を維持し、向上させ、新しい時代に対応するには、たくさんの課題があります。そのための声の研究もメインなのです。

一流を入れる

スポーツや音楽の世界では、教えられずに、あるところまで才能を発する人がいます。それには条件があります。必ず、それ以前に、一流のプレー、試合、作品などに接して、そこから吸収しているということです。

独力で伸びた人は、誰よりもそこから多くのものに気づくセンサーが鋭いのです。学んで自分をコントロールし、足らないところを補っています。語学もラジオだけで何か国語もマスターした人もいますね。何から学ぶとか、誰から学ぶとかもセンスであり、才能の一つです。

 オペラにはメソッドがありますが、ポップスや邦楽にはありません。メソッドといっても、その時代の流行のもので、全世界で統一してあるというわけではありません。

 独力であれ、学校であれ、一時期はしっかりと他の人に学んでいるという事実です。歌を聞いてもいないし歌ってもいないで歌手になった人もいません。最初からうまかったとしても、しゃべれなかった時には歌えてはいないでしょう。今の実力とは、何に出会い、どう反応してきたかの積み重ねなのです。

基礎のある人

よく「誰の作品を聞けばよいのか」と聞かれます。基礎のある、いや、基礎を学ぶのがよい歌い手や役者は誰かということです。

プロの人は「基本を教えて欲しい」とか「基本をやり直したい」とか「基本を知らないので」などと言って、ここにいらっしゃいます。ポップスでは、歌っていたら、バンドを組んで活動していたらプロになれたという人が多いので、自分は基礎をやっていない、正規の教育を受けていないといいます。そういうコンプレックスがあるのかもしれません。しかし、基礎や基本とは何なのでしょうか。

 研究所では、そこを「発声体としての基礎」においています。音大のカリキュラムのような統一されたものではありません。しかし、どこかで学ぶべき基礎といわれるのなら、ある程度の統一性は必要です。

 トレーニングが特殊なものだから、基礎トレーニングというのです。どこでも迷いが生じることです。

声楽では教育を受けずに、つまり発声の基本を身につけずに、オペラ歌手になるのはとても難しいでしょう。発声の基礎が、そこにあるということです。しかも10年以上のプロセスとして歌唱力と分離されて声楽、発声練習としてあるのです。邦楽でも10年、20年では基礎どころか小僧という深い世界です。そこからも多くを学ばせていただいていますが、邦楽は、芸と基礎トレの分離ということ、流派(一人の師)ということ、日本だけで、という点で扱いにくいのが実状です。

基礎と基本の定義

基礎とはfoundation、下部構造、大本、基い、土台、建築物でいうとコンクリートの基礎であります。基本はbase、物事の成立に基づくもの、判断や行動、存在の基、基い、根本、土台という感じでしょうか。

 とはいえ、英語でもどちらにも使われ、日本語も区別されないときもあります。ちなみに私の本では、基礎、基本講座とついたものがあります。基礎、基本に対応するのは応用やアドバンスで、上級などになるのでしょうか。

 そんなことはさておき、ここではヴォイトレにおいて、歌唱やせりふ、朗読に対しての位置づけのことです。声のヴォイストレーニングに対して、歌はトレーニング、せりふ、朗読はせりふ、朗読トレーニングでしょう。そんなことは何回も述べてきたので、ここでは定義で考えてみたいと思います。つまり、芸能の判断をするときの基準としての基礎や基本ということです。これは、とても大切なことです。そこから伝統と芸、時代を生き残るための基本、芸術性と大衆受けまで述べたいと思います。

 

二極論の補足※

「二極論」については、私のこれまでに書いたものを参考にしてください。以下、補足です。

A.役者型―劇場 視覚 イベント パフォーマー 詞 ストーリーテラー(漫才) 詩人 ことば スタンダップコメディ 熱狂 音楽性 インタラクティブ 詞先 (今の長渕剛美輪明宏)

B.ミュージシャン型―BGM 聴覚 ライブ バンド メロディ、リズム 音楽性スキャット プレイヤー 音楽、インストルメンタル 曲先  (昔の長渕剛憂歌団横山剣)[敬称略]

有能ゆえの無能

一人で指導している人は、その人に合わない人が辞めていくので、もっとも大切な、自分に合わない人への対処について、あまりにも学べていません。残るのは、自分のやりやすいタイプか自分のやり方に合わせられるタイプで、そこでの効果から全てをみるからです。これが、歌のうまい人は声楽家のところで伸びるが、下手な人はもっと悪くなると、竹内敏晴氏の疑問への回答の一つです。

 私は心身が丈夫というか、人並みなので、そこの弱い人への対応は遅れました。心身が弱い人へは、それを克服してきたトレーナーが適任で、その経験を基に対応してくれます。私は喉が弱く大声も出なかったので、そこがもっともベースとなりました。それと同じく、有能なアーティスト、歌手、トレーナーが、一般の人への対応にうまくいかない。これは実質面でのことです。

 特にクレームがあるからでなく、本当はもっと力がついていなくてはいけないのが、少しうまくなって止まっているのは、「教える人が有能ゆえ、他の人に対して無能」ということなのです。

ヴォイトレはトレーナー本人が「有能なところこそ、対処に無能になる」です。この有能さを他人に活かすには、トレーニングの長い経験と、他のトレーナーからの気づきが必要です。

トレーナーの支え

ヴォーカルというのは、自己肯定力がないと続けられないものですから、どこかで自信過剰、自惚れがあります。まして売れた人ならプライドも相当に高いものです。売れていないのにプライドだけが高い人は、難しいです。

 よい歌い手でも、自己肯定力があまりに強いため、世に出られないタイプもいます。そこには目をつぶり、他の人に任せよというのですが。

 自分が売れてもいないのに、そういう人たちにズケズケ言うとしたら、トレーナーは、歌手や役者と違うものに支えられていなくてはなりません。歌やせりふに対して声、ステージに対してジム、本人一人だけに対して多くの人、というのが、トレーナーのキャリアです。長い年月での声の育成プロセスの把握や、そのプログラム、結果の分析なども、アーティストには自らの体験しかないので、トレーナーに求められる経験です。よくわからない世界だけに多くの人を長い時間みた経験、それも一人で行うのでなく、多くのトレーナーを介してみてきました。うまくご活用ください。

 

表現力を高める

ときに、表現力をつけたいと言って来る人がいます。この場合、ベテランの人ほど変わるのは難しいことです。初心者は、一流のものを聞くこと、そこから力が引き出されるようにプログラムすれば、後は時間をかければよいのです。

 しかし、ベテランは、それが終わったレベルに達していると、新しく入れるにも、入れ方から、気づきから学び直さなくては大して変わりません。よいものが相当に入っている人ほど難しい。そこでは自らを白紙にできるか、ということです。頭だけがベテランになっていて、力が伴っていない人は、さらに難しいことです。

 表現力をもう少しつけたいというなら、技術の問題ですから、発声の基礎からやり直します。しかし、本当につけたいなら、これまでのキャリアや自信まで白紙にします。

 これまでのうまくやれてきたことが、さらなる成長、可能性の追求を邪魔していると考えるくらいの覚悟が必要です。その覚悟があれば、そこまで高いレベルで気づけいているなら、最高のプログラムとして与えられます。そこから自分にないものを必死で入れ込みます。こういう人は、本当に稀です。ほとんどの人は、自分でやってきたことを取り戻し、確認できたら満足してしまえるのです。

挫折すること

自分を疑い続けているトレーナーには自信を与えますが、疑ったことのないトレーナーには、挫折から学んでもらいたいと思っています。早く挫折して欲しいので、ベテランの生徒や難しい生徒を混ぜたりします。うまくいかないところにこそ、その人の個性やよさも出てくるからです。

 挫折や失敗のないトレーナーでは、人を育てられません。自分が学んでいるということは、より高いレベルのことが求められるようになることです。その分、失敗やうまくいかないことに必ずぶち当たるものです。誰でもよくする、すべてうまくできると言っているような人は、目標が低いか自己のやっていることの把握もできていないということです。だから続けられるということもありますが。

 多くのトレーナーは、発声を学ぶときの挫折を経験に乗り越えたと言います。それでは、ただの自己PRになりかねません。ここで問うているのは、トレーナーとしての挫折のことです。

 プロデューサーでオーディション対策というのなら、その人のもっともよいものをまとめ、よくないところをすべて省くでしょう。ですが、レッスンなら、悪いものをとことん出してもらうことが大切です。そこからよいレッスンになっていくと言っています。

 レッスンは、最初からスムーズにいくとは限りません。目的を高く大きく変えていくなら挑戦であり冒険だからです。すぐにうまくいくようなのは、少しうまくなるくらい、私からみると、さして変わりがないのをよしとしているからです。順調で楽しかったレッスンも、あるとき、頭打ちになり、うまくいかなくなる。その先からが本当の学びなのです。早くそこまで行かせたいのです。