夢実現・目標達成のための考え方と心身声のトレーニング(旧:ヴォイストレーナーの選び方)

声、発声、聞くこと、ヴォイストレーニングに関心のある人に( 1本版は、https://infobvt.wordpress.com/ をご利用ください。)

体を使う

知性や理性、悟性でつかむものは、形です。体を使えば土壌ならしはできます。耕すことの毎日から、いつのまにか芽が出て花が付きます。そのときに、何の花か、どのような美しさや大きさかは知らなくとも、そのときに種がどこからか入っていたとわかるというものでしょう。花を夢みることと、大切なのは、土を耕すことです。

 

究める

声の使い方としては、ピアニッシモや丁寧さから教えるのが今の風潮です。それは喉を壊した人へのフォローとして、あるいは、自主トレで声を酷使しすぎて荒れている人へのレッスン内容です。

 レッスンのときしか声を出さない人には、歌のためのバランス調整にしかなりません。一時間しか歩けない体力の人にサッカーを教えているようなことで、そういうレッスンもあってよい、とは思います。しかし、普通の人なら、がんばれば、何か月かで10キロは走れるものです。75歳くらいまでなら容赦しなくてもいいです。あくまで例えで、10キロ走れても、声とは別なので無理に走らないでください。

 大きく出せるからこそ、小さくも使えるようになる、それが原則です。一見、誰でもできるものにみえるものほど、究めていくのに難しいのです。中音域やアの方が、中級者レベルでは高音域やイ、ウでの発声よりも難題となるのと同じです。

思いっきりよく

「無理に出すから痛めるのでなく、中途半端に出すから痛める」というのは、メンタルの弱い人はわかりにくいことです。恐れてやると怪我をしやすいのと同じです。メンタルが声を引き出す、心身一体でこそ、超えられるのです。そういうことは、どこかで経験して欲しいものです。他の経験の方がずっとわかりやすいです。

 昔は、役者は養成所でそういった体験を、よくも悪くも全身全霊で声に対しても試みて、何か出せた経験からスタートしていました。なかには喉を傷める人もいましたが、こつをつかむ体験となりました。今は、お笑い芸人の方がそのあたりを学んでいます。

 うまくいかない人は、イメージかメンタルかフィジカル(喉)に問題があったのです。それを知ったら、そのままには続けないで、無理せず丁寧に練習を重ねていったらよいのです。上位の人との心身の差を詰めていけたら、次にそこにワープする経験を積める可能性が出てくるのです。

プロのヴォイトレ

楽譜通りに歌えない人ばかり教えていると、もう、正しさを100点として、そこにいかに近づけるかがレッスンになります。音楽の基本3つの要素を正しくするのがレッスンの目標となるのです。

 プロとやっていると、そこは超えて、歌唱力、その解釈と表現に集中できます。一流に対して、初めて声そのものの問題に入れるのかもしれません。そこでは、音楽、歌、声と3面からアプローチしなくてはならないのです。

 ですから、CDだけもってこられてもレッスンが成り立つのです。ある歌のレッスンでは、もっともよいテイクだけ、あるいは、最も悪いのを持ってきてもらいます。前者はコメントですべてのこともあります。後者はそこからのレッスンです。

 

切り替え

私は、他の人のトレーニングをお手伝いしているうちに、歌、声のなかに何本もの線がみえてきました。あたかも、初心者のとき、歌い始めは何も聞こえず歌い、そのうち、ピアノにのって歌えるようになり、しばらくして、バンドのそれぞれの音やトータルのサウンドが聞こえてくるかのように、です。我ながら鈍いのですが、そういうプロセスがあったおかげでしょうか。歌一曲のライン、Aメロ、Bメロ単位のブロックのライン、1フレーズ(ブレス)単位、そして1小節のなかと、4つくらいは同時にみたり、切り替えしてみたりできるようになっています。

 メロディ、リズム、ことばという3つでは、歌のトレーナーは皆みているはずです。ただ、そのために声をみなくなっていることが、よくある話です。

知らずに知る

知らずにするというのは、頭で知らずにということです。気づかないうちにできるようになるということです。それならば、頭が邪魔しないようにする、次に体が邪魔しないようにする。逆の順でもかまいません。理想的には同時にそうなるとよいのです。

 「ヴォイトレなどをしない方がよい」と、ヴォイトレを否定する歌手や役者がいます。それは、こういう意味では正しいのです。そういう人ほど、もし実力者であるなら、ヴォイトレをその名を使わずヴォイトレと思わずにしっかりと行ってきたし、今も行っているわけです。

 理想的な発声をしていたら、深い呼吸ができるようになります。例えば、本当に全身全霊で歌えていたら、ヴォイトレはできているのです。

 そうでない、その他のほとんどの人が効果的に強化するために、筋トレやコアトレのように、そこだけ取り出すヴォイトレがあるということです。そのように絞り込んで集中しないと、普通はなかなか、これまで以上の力をつけられません。ピアノで難しいパッセージだけをくり返し、指を動かすようなことは、パッセージの練習でなく、それに対応できる感覚と体(指など)のためのトレーニングです。それでは雑になるから練習曲があるのです。全体の流れをリズム、テンポも外して20秒くらいでベースの音やコードだけでさらえる練習が基礎トレーニングによいのです。

なくすこと☆

喉をならすのでなく、なっているとしぜんと呼吸も長く使えます。だから「ならすな」というのです。

「喉を開ける」これもイメージ言語ですが、そこで「締めろ」というトレーナーもいます。まったく逆のことのようですが、私からすれば、同じことです。喉はあるのですが、それを「ないものと思え」というのも同じです。

 健康でなくなると体がそれを意識します。痛みがあると体の存在を知ることになります。風邪で喉が痛いときに喉があるのを知ります。すべてあるのは、調子の悪いときです。ですから調子がよいときは消える、意識できないのがよいということです。

 喉も顔も体も呼吸法、発声法、声も歌もなくしてしまうのです。なくせといっても、なくならないのです。そこで意識して、存在を確認します。それがレッスンであり、トレーニングのプロセスです。その後に意識をなくす、なくなったときによしとするのです。

中心の確保☆

発声の理想の状態は、結論からいうと、ゾーンに入った感覚です。我が消えて自分が世界、宇宙の中心という神の媒介のようになった至福感に満たされ、そこに方法も術もないのです。それは、使えるようになるために使うもので、使えた時には消えます。消えないと困るのです。

 声は、出して出せないものより、出していないのに出ているものとなるのでしょう。それを得るためには、考え方でなく感覚と体が必要です。それは、私がフォームと言うものです。構えといってもよいでしょう。

 呼吸法は呼吸として発声法に組み込まれ、発声法は発声として共鳴していくのです。そこでの境はなく、同時に生ずるのです。そこで意識は無となり、感覚と一体になります。その一連の動きを邪魔しないようにするためにレッスンがあるのです。なのに多くのレッスンは、逆に感覚と意識を分けてしまうのです。もっとも気をつけるべき点の一つです。

声の凋落

歌が、歌詞やアレンジでしか違いが出せなくなってきたのは、メロディ、リズムのすべてのパターンが出尽くした、とは言わないまでも、かなりの部分は使われてきたでしょう。声も変化させるのにも限界があります。同じ声、フレーズでの変化、それらは、人のことばが人の心に働きかけているうちは失われることがないと思います。とはいえ、そのピークとしてあった歌やせりふがダダ漏れとなっていくとしたら、求めてまでは聞かれなくなります。

 それは、下手な朗読や漫才を聞くとよくわかります。時間とともに退屈、マンネリ、不快になってきます。そういう声での、会社や家庭、仲間付き合いになっているのでしょう。パーティのような会話文化や討論などの対話集会の成立しにくい日本ですから、当然でしょう。私は、日本人として、それを悪くない、いや、誇るべき平和な日常だとも思っています。声が役立つときは危険なときです。かといって、声を上げる能力を失ったら、それは怖いことと思っています。

精神のレベル

戦いとは、敵と対峙しているようであって、常に自分のものとの対峙です。それは、スポーツでよく知られていることでしょう。すぐれた選手、達人は、相手が誰であれ、自分のベストを出せばそれでよいと思っています。まずは、それが前提です。なかには、本番でベストが出せなくても優勝できるようなダントツの選手もいますが、それでは、本心で満足できないでしょう。

 スナイパーは敵の急所に赤外線が当たればOK、ロックオン、射程距離に入ったらあとは方向だけ定めればよし、声に似ていますね。

 声にも距離と方向があります。イメージとしてのことです。実際は音波ですが、ただの音の波とは明らかに異なります。そうならなくては、人の耳には音として聞こえても、意味は伝わりません。

 声には伝えようとする意志が乗るし、聞きたい意志をもっている人との間で成立するのです。それを超えて、成り立つ、そのときがアートになるのだと思います。それは精神のレベルによるのです。

 

精神の形

歌い手も、加齢によって共に声量や技術も衰えます。スポーツにも似た限界としての引退があります。その是非を問うても仕方ないでしょう。復帰した人も多いし、それぞれの人生観です。

スポーツでも40代の現役の選手は珍しくなくなりました。種目にもよるでしょうが、それだけ体の管理や技術を支えるツールの発達などがあったのです。しかし、何よりも思い込みからの脱却が一番なのです。ここでも精神が体を超えるといえます。

 となると、体よりも精神を鍛えなくてはならないとなるのですが、体力なしにメンタルを強化するのは難しいものです。体の方がシンプルなので、そこから入るのが一般的です。

 精神修行として歌ったり読みあげるのは、あまりに日本的です。

 ストレス解消やリラックスのために声を出すというのは、健康な使い方でしょう。使い方というと、カラオケも声の使い方です。しかし、声そのものは、使い方ではどうにもならないものとして分けてみると、案外と精神そのもののリアルな形が声にみえてきます。

 気分で表情も声も変わるでしょう。声のコントロールは感情のコントロールです。それは呼吸のコントロールによることは説明がいらないでしょう。ですから、人の説得にも、実際に会って声をかけるようにしているということです。

 

精神の力

声は、ことばを伝えます。どんなスポーツやアートよりも実用的です。そこに精神的なものを求めるのもあざといので、私は道とは言ってきませんでした。戦いや遊びがスポーツやアートになったように、声もそうなってきたとは思うのです。武術も、武道となったところでその中に入ったのでしょう。

声は、声明などに代表されるように、神事としての性格を併せもちます。弓道流鏑馬、古武道などとも似ている気がします。宗教儀式としての声は、体で発するものでありながら、体を超える精神によるところが大きいのです。声における精神力の大きさは、並みならぬものがあると思います。

 それをリアルに知ったのは、美空ひばりの病いからの復帰後の東京ドームのコンサートでした。普通の人の半分も使えない呼吸機能で35曲歌い切りました。その後まもなく逝きました。焼身自殺した高僧の、火中で姿勢が崩れないのにも似た人間の精神の、肉体や物質に対する勝利でした。これが、ごく一例、天才の成す技としても、です。