夢実現・目標達成のための考え方と心身声のトレーニング(旧:ヴォイストレーナーの選び方)

声、発声、聞くこと、ヴォイストレーニングに関心のある人に( 1本版は、https://infobvt.wordpress.com/ をご利用ください。)

複合して学ぶ

一流のアスリートは、専門となるスポーツをする前に、別の種類のスポーツをしていることがわかってきました。錦織圭(テニス)はサッカー、朝原宣治(陸上)はハンドボール佐藤琢磨(F1レーサー)は自転車、鈴木桂治(柔道)はサッカー、澤穂希(サッカー)は書道、プロ野球ピッチャーの前田、大谷、藤波は水泳など。

 これは種目でも同じで、けっこう多種目をやる人が、後で伸びます。より違ったことを学ぶこと、その複数の経験から気づくことが多いということでしょう。手段などというのは無限にあるモノなのです。

 私は、多くのトレーナーと会ってきましたから、よく、その人の方法やメニュの根拠を尋ねました「私の先生がそう言っていましたから」「本に書いてありました」と堂々と言うトレーナーも珍しくありませんでした。

 ですから、方法やメニュについて、メールなどで聞かれても、一つの正解を与えたくないのです。多様性と混在の場、それが、これを始めた目的の一つです。

 

「こういうときにどうしたよいか」という質問☆☆☆

 質問に対しては、一つの答えを与え、「それでできる」と思わせることが、当たり前に行われています。これは必ずしもよいことではありません。例えば、何も答えないで表情で表すとか、こうしたらよいと、いくつかの事を、わけのわからないくらいに、たくさん答えるとか、このように、ですね。

 そうすればよい、それでやるとよいということが、それでしかできない、それしかやらないという方向に行くとよくありません。それでできるはずが、それでできなくなったとき、行き場がなくなりかねないからです。

できないことをする

例えば、ことばをしっかりと読んだことのない人なら、早口ことばから始めてもよいでしょう。しかし、それが日常でできているアナウンサーなら、そのメニュは、これまでのくり返しにしかなりません。そしたら、イタリア語でオペラの1フレーズをやるようなことに挑むのが、声や、ひいては発音にもよいかもしれません。

 ここにこないと、絶対に一人ではやらない、できないことをやりましょうと言っています。思いつかない、わけのわからないこと、それを求めて人につくのです。

自分でできないことをしないのなら、レッスンの意味がありません。自分でできることはできるだけ自分で、その方が、ここをより活かせるのです。

ヴォイトレのは特殊か☆

声が他の習い事と違うのは、すでにもの心ついたときから使ってきているものだからです。ヴォイトレは、日常に行っていることを見直し、変えていこうとすることになります。

 無意識に行ってきているものを、新たに見直すとしたら、他の例では、ウォーキング講座や話し方講座のようなものでしょうか。でも、茶道でも武道でも、元はそういうものだったのです。

 こういう類のことは、新しくやることよりも面倒です。これまでの習慣で、知らないうちにがんじがらめになっているからです。求めることやレベルによっても、調整、修正、鍛錬とそれぞれに違います。

目覚める人

禅、ヨーガ、宗教音楽なども、その状況、雰囲気の方に心を打たれていることが多くあります。異次元経験の少ない人ほど、一度ではまってしまうのです。スピリチュアル、ヒーリング、浄化は、田舎に行くことのない都会生活者の憧れの補充のようなものです。

 ですから、そういうものにはまってリラックスしている間に、病気になったり社会に適合できなくなる人も少なくありません。この社会というのが何を指すかは、難しいところです。別の社会を見つける人もいるのですが…。

 ヴォイトレをして、開かれ、目覚めて、会社を辞めたり沖縄に渡ったりする人もいるわけで。ヴォイトレでおかしくなったのをヴォイトレで直すのも変ですが…と、ときに正気に我に還らせます。

働かす

感じ取って必然としていくこと、一つひとつの意味を、です。体も心も、声もことばも一つひとつにあるものを細かく認識していくのです。

 力には限度があります。最大にも最長にも使うと、そこで限定をつくってしまいます。力を入れず、働いた力を動かすのです。こうした心身がほぐれるためのノウハウを日本人はたくさんつくりました。

 

無心に

海で浮こうとしてバタバタすると沈みます。泳ごうとしても泳げない人もいます。でも、力を抜いたら、一度沈んでも浮いてきます。仰向けになると、口で息しようと顎を上げたら鼻に水が入るし、沈む。顎を引いて体を伸ばしたら、少し沈んでもスッと浮きます。

 少し沈むところで顔や眼に水がかかると、あわてる。だから溺れるのです。海とか水とか意識せずに寝そべればよいのです。発声も、よく似ています。無心にしぜんに。声や歌から一度離れることです。

同一性から多次元に

自己防御機能がすぐに働いて、守りに入ってしまい、いつまでも変わらない人がいます。例えば、よい人にみられたい、そう振舞う、それは悪いことではないのです。しかし、そのため、言い訳で正当化したり、ごまかしが起きてしまうようになるのです。婉曲や逃避や、まねることや同化、責任転嫁が知らずと起きてしまいます。

自己のイメージにつじつまを合わせるためにそうしていると、いつの間にか、本当の私というのを別につくることになりかねません。創るのは創造、創造物ですから、別の自分でよいのです。

 「どうしようもないわたしが歩いてゐる」(種田山頭火

動いてみる☆

人生を変えたければ行動を変えればよいのです。人は、同じところからみている限り、同じにしかみえないものです。ところが、自ら動けば、みえる世界は一変します。ときおり、私も動かしてみせるのですが、同じにしかみえない人もいます。つまり、新たにみえるものをみていない人も多いのです。

みているというのは自分のみたいようにみている世界だからです。でも、その見方は絶対か、普遍か、真理か、疑ってみることです。そうでないというなら、なぜいろんな問題が、これほどあるのでしょうか。

 

体験と実感の違い

体験から気づくことで先取りして、頭で邪魔しないことです。

 教えられることに、その根拠や正解が示されないからと不満や不安を持つというのは、よいことでありません。頭で思い込んでいることを捨て、体で感じてください。腑に落ちて、動くのが本当なのです。それを実感してください。実感しようと心掛けてください。

 自ら、気づき動くこと、考えて生きること、それを同次元におくのです。その場をつくることです。

 そこにいればよいというのが、トレーナーです。そういう場とそういう関係が成立していれば、教えられなくても、いや、教えられない方が、もっと大きく大切なことを学べるのです。