それで何に気づくか、どういうイメージが思い浮かぶか、そして、自分が他のいろんなこととどう結びつけられるか、そのきっかけを与えるのが、レッスンです。
レッスンのレベルは、メニュやノウハウでなく、受け手の能力、感受性によります。トレーナーのことばは、そのためのきっかけですが、正直なところ、必要悪です。
たとえば、今日の課題をみんなで一緒に読んでみるなどというのは、それぞれでやった方がよくできることです。日本人なら合わせることに気をつかい、できない人は慣れるのによいでしょうが、全体の平均レベルにそろえてしまいます。
私は、研究所ではそこでしかできないことをやるようにしています。自分でできることは自分でやることです。
自分でやるべきことをこちらがやってあげると、もっと大切なものを学ぶ機会を失うことになります。レッスンのレベルが、とりくんだ上でのレッスンでなく、とりくみのためのレッスンとなります。
それも必要と思ってもいますが、一度そこにレベルを下げると、戻りません。ずっと自主性、主体性、ポジティブに読み込む力を抑えてしまいます。しかも、教えてもらうのがレッスンだと思わせてしまう。これは最大の誤りです。しかし、そういうトレーナーやレッスンが、日本では求められる、そういうメンタリティもわかってきました☆☆☆。