私が声と発音を分けるのは、発音はチェックしやすく、誤りを直しやすいからです。歌でも音程やリズムのミスは、そこを直すのですが、それとヴォイトレとは、分けなくてはいけません。
昔から、歌のレッスンはありましたが、私の考える本当の意味でのヴォイトレは行なわれていませんでした。声楽家でさえ、そこを飛ばして、歌唱のテクニックから発声を始めていたのです。ポップスでは、作曲家がピアノでメロディを教えて、歌詞を合わせて一丁あがりでした。
それでも、日本では歌心ということばで、歌手志望者は、生活のなかで仕込まれたわけです。「歌をトータルで伝える」ために「その環境や習慣を与える」のは、素晴しい素質のあるものには最高の教育法です。
あたかも、芸人や役者は舞台に立たせたら成長する、子どもは川に落としたら泳ぎを覚えるといった、ハイレベルでのハイリスクな方法です。真の天分のある人は、早く大きく育ったのです。
そのやり方は、今の日本では難しいでしょう。多勢のなかから抜きん出た力をもつ人を師が選ぶというシステムの上に成立したのです。それは、日本の伝統芸能や相撲などにも通じます。欧米でもすぐれたアーティストがプライベートで同じことを行なっている例があります。世界中から天才を集めて教育するのです。しかし、マンツーマンで教えるのでなく多対多でチームをくんで教えるのが一般的です。
才能や素質にめぐまれず、頭でっかちな人はこういうシステムを頭から否定します。それだけの修行をしていない人、その境地まで達していない人が何を言っても仕方ありません。
嫌だからやらないというのも、アーティストの特権です。私は本人の意見を尊重します。しかし、それを嫌と思うところで嫌と思わない人に負けているともいえます。
世の中にでていく人にとって、自分の好き嫌いなどは超越しているのです。
「私が」「私が」といっていると、レッスンの効果も限られたものになります。
声に日常性のなかでこれまで培われて動いてきたのです。ハイレベルにするには非日常性と、とても高い必要性を与えることです。それが、トレーナーの真の役割です。