「胴間声、馬を追い、田を起こす野良声は、熱く、強く、国を突き抜けて、海の船での人を呼ぶ声は、それを忘れてどれくらいになるのか」と、竹内敏晴さんは述べていました。日本のオペラ歌手をみて、「力がない、輝きがない、ひ弱な優等生の答えだ」と看破しています。「ここに人間がいる。この声を聞け!命の輝きを!イタリアのオペラの声を知った竹内さんの衝撃」それを、私も、また見失ってから久しいといえます。
「表現(呼びかけも含む)の伝達と、私が学生時代に学んだメルロ・ポンティの現象学―それが結びついてこようとは、当時、知る由もありませんでした。『これが自分の声』と、汚くても、しなをつくり身構えたような声を排除してきた、竹内さんの求める声を、多分、私も求め続けています。
マイクによって、人の声は、声と声、体と体のふれあいから失われていきました。「安らぎ、集中し、笑えるところがレッスンの場」と、竹内さんは言っていました。
笑い顔にするとよい声が出るのは、この状態が発声の理にかなっているからです。頭からでなく、体から、表情から動くのです。この生のことばや生の声の力を見習って欲しいのです。
「表現は内的に感じとるのではなく、外に、他者と共有する、この目の前の案内に、くっきりと存在しないものを作り出すこと」と竹内さんはおっしゃっていました。
私が竹内さんに言われたことがあります。「出しやすいところ、出してやすい声から始めようというのは、とてもよいですね」と。私の軸は、ずっとぶれていないと思ったのですが、それは私の軸でなく、地球の軸だったのかもしれません。人類の、人間の軸。私たちが、身近に感じているだけの、私たちの感じていた、確かな感触なのでしょうか。でも、それが失われて久しいと、悲しいかな、締めくくることになるのです。