「西洋音楽論」で指揮者、編曲者の森本恭正氏の、西洋音楽はアンダービートという論を読みました。日本人の裏拍は1And、2And…で、Andが強いというもので、クラッシックでも二拍子が強いということです。行進や、信号が赤から青でなく黄色をはさんで変わること、日本のマンガの急な展開、尺八のタンギングのなし、などを例に出されています。日本の楽器は、人のためでなく、自分の瞑想と思索のためにあるとのことです。求められるのは、音色でなく、旋律、ハーモニーでない。Dumb=バカ、しゃべる=饒舌な文化、バロックでの歌(旋律)と伴奏のミスラムの確立。
最後に「君が代」では行進はできない。世界で唯一、ヨーロッパの音階で作られていないから、というのは、私には知りようもないのですが…。ロマン派の狂気を読み取れなくなったら演奏する意味も、エキサイトメントも消えると。
これまでの私のリズムと音階論の裏づけにもなることでした。私は2拍目と言うより、1拍目の前の(つまり4拍目)の準備に、注意して述べました。ハンドルの遊びかもしれません。
私は、日欧のボールつき(ドリブル)で手でついたところでカウントするのと押し込んで引き上げるところでカウントする違いや、引く(のこぎりや柔道)と押す(のこぎりやボクシング)の違いを示しました。
私には、なぜクラッシックの人が気づかないかわからなかったのですが、昔の音大のピアノ科卒のポップスのピアニストなどが、アンダービートを苦手にするような時代は、終わっています。それでも、プロデューサーやアレンジャーなどの歌詞とメロディ本位と、リズム軽視がずっと続いていました。それは母音を中心とする日本人の耳の合わせるためのものだと。私が「ヴォーカルの達人2巻、音程リズム編」で述べたことです。
日本人 母音(共鳴)、メロディ(伸音)、一音(一声)さわり、高低アクセント
欧米人 子音(息)、リズム(グルーブ)、コーラス、ビブラート、強弱アクセント
これらの背景、文化、風土で表現に求められるもの、場も異なります。日本人の欧化政策と、古来の日本の文化や生活様式からの断絶が、この問題を、複雑にしています。
マイクや音響、合成音を駆使するポップスにおいては、簡単に述べられません。だからこそ、私は人間の体や声の元に戻って、アカペラで発声やヴォイトレを考えようと思います。
人間としての体の共通なところ、表現の普遍性、この二極を詰めるのです。そこでものごとを考え、その上で、今の、あなたの保ち続けたスタンスを考える、ということで、確かなものとしたいのです。本当に使える声として身に付けていくために、そこまで考えていくのです。