生徒が満足し、喜んでくれる。やがて、生徒のなかで何人かに(基準の甘いトレーナーなら全員に)効果らしいものが表れます。トレーナーは、教えたことが伝わったことを実感します。
多くの場合、それはトレーナーでなく、生徒が慣れてきたのです(でも、人がくることがトレーナーがすぐれているということです。私は、くるのでなく、3年は学び続けることがより大切だと思います。私のように本を出していると、一度は会いにくる人も多いのですが、ただ会いにくるだけの人もいます)。
トレーナーには、自分の言う通りに、すぐできるのが、素質があり、努力している生徒、そうでないのは素質に欠け、努力していない生徒のようにみえることになります。
すると「自分のように」「自分の教える通りにして伸びた人のように」なるべきで、「伸びていない人はやらなくてはいけない」、となってきます。
2、3年もやり、一通りのタイプに慣れてくると、教え方(=型)というのができてきます。よくも悪くもそこから「トレーナーの独自性」が出てくるのです。これが強く出てくるトレーナーと出てこないトレーナーの優劣は、簡単には判断できません。
専門化するに従って独自化されていきます。すると、あるタイプとより合うようになる半面、合わないタイプとはより合わなくなってきます(薬と同じです)。そこでトレーナーは柔軟に対応するか、他のタイプのトレーナーと組むかとなりますが、どちらも実際は難しいため、うまくできていることはあまりみられません。
よりよい事例をみて、よりよく効果を早く集中的に、かつ効率的に上げようとすると、手探り状態で遠慮勝ちにしていた指導が、前向きに、積極的に働きかけるように変わってきます。やや強制的に、ある意図をもってレッスンが行われます。それに合っている人は、よりよい効果が得られ、ますますトレーナーはその傾向に偏ります。だからこそトレーニングです。私はそういう意図がない現状を憂えています。
トレーナーの自信の裏付けとなるのと同時に、気づきにくい落とし穴になっていきます。やや専門的に深くなった分、多くのケースでは狭くなります。偏向していくのです。
しかしトレーナーは、「自分に合っている人しか残らない」という閉ざされた環境でやるので、自分のおかれている立ち位置になかなか気づけないのです。