養老氏の「バカの壁」に触れました。壁の内側にいると、外側は、その存在さえわからないのです。
声は、レッスンの中でもトレーニングの中でも、常に、ではありませんが、あるとき次元が変わります。パラダイムが組み変わるのです。レッスンはそのためにあり、トレーナーもそのためにいると私は思うのです。
ただ、「そういう瞬間、そのうちのいくつかは偶然の産物で、その奇跡を待て」というのでは、モチベーションが保てない人もいるでしょう。そこで、その場とその時間をトレーナーのもとで、共有して底上げしていきます。少しずつ、感覚や体の条件を鍛練しては丁寧に整えて、その一瞬を起こせるように、気づけるように、整地、地ならしをしているわけです。トレーナーの感覚の共有は大きなヒントです。
鍛練なくして整えたところで、その瞬間というのは望めません。精度として10分の1くらいに整えていても、1000分の1レベルで整わなくてはまだまだ、といったところです。
鍛練といっても鍛えようなどと無茶をすると、バランスが壊れて乱れます。今までより悪く、10分の1も整わなくなります。それが自滅なのか、100分の1へ行くためのプロセスなのか、それを見分けることが肝心です。
そこにとどまって厳しく判断します。それは決して慣れあいのレッスンでは生じません。器を大きくしていくのに、自らの外を固めてしまっては内なる限界は破れないのです。