「声と表現とは別」表現のために声を学ぶ人は、表現のための声が優先されるので、そちらからもみるようになりました。プロデューサーは、そこをみるばかりです。ロック、カラオケ、ハモネプ、コーラス、役者のせりふ、アナウンサー、朗読、声優の音色(使い分け)果ては、腹話術やホーミーまで、どれも声と関係があるので、世界中、巡って学びました。
トレーナーは、それぞれの分野のプロとは違うのです。歌のうまいトレーナー、役者並みにせりふを言えるトレーナーもいます。その人の出身がそこであれば当然です。ここのトレーナーでも、声楽家ならオペラを歌えます。普通の人よりも、その分野をやってきたからです。そして、それは他の分野では、そこのプロには及ばないということです。
ヴォイトレのトレーナーは、トレーニングを教えても、プロの歌い手のようにヒットさせることはできません。プロの俳優、声優、アナウンサーの代役も難しいでしょう。ソロとしてヒットさせた後にトレーナーになった人はいますが。ここに声を習いにいらっしゃる落語家、伝統芸能家の芸などは、まねることも難しいです。
ゴルフのレッスンプロと同じく一流のゴルファーだった人が必ずしも教えているのではありません。教えることのプロが教えているのです。大多数は、そうでなくても自分よりもやっていない、できない人に教えている、そこで成り立っているのです。
表現活動で食べていけないと、手段としてトレーナーや教職を選ぶのです。これを否定したら日本の声楽界は成りたたないでしょう。
教えることで学べることも大いにありますから、教えることを兼ねるのは悪いことではありません。芸を継承させ、将来を後世に託していく使命もあるのです。
しかし、その結果が凋落ではいただけません。古来より、廃れていった分野は数多くあります。まずは隆盛していたわけです。一人の天才が創始、継承して、一時はそのジャンルを超える幅広い活動、大きな影響力を世に与えていたのです。そのために、それに憧れ、それをやりたい人が集いました。客が客を呼び、増えていったのです。そこからが問題です。
これが、ポップスなど海外からのインポートものになると、憧れで、本人も客も本当の意味で舞台が成立しえないうちに流行してしまうから、事情は複雑です。
保護、援助しなくては存在できないものをどう評価するのか。建築物などでなく、人間の活動です。予算なら保護に回すのか、新しいものの台頭への助力へ回すのかとなります。それを誰が決めるのか。お上か庶民か(この件は、文楽と橋下大阪市長の補助金騒動でのやり取りがわかりやすいので譲ります)。
トレーナーの位置づけ、これが単に自分よりもできない人の引き上げでなく、自分よりできる人にすることと思います。そこから一般化していくならよいと思うのです。そうでないケースでは、評価は自己満足でメンタルトレーナーになっているケースが多いのです。