夢実現・目標達成のための考え方と心身声のトレーニング(旧:ヴォイストレーナーの選び方)

声、発声、聞くこと、ヴォイストレーニングに関心のある人に( 1本版は、https://infobvt.wordpress.com/ をご利用ください。)

身体からの声、歌からの声

表現とは別に、声単体の評価が成立するのか、それが私のライフワークとしての課題でした。声が本当に表現に化したときに声は消えます。話し終わって「声がよい」と言われるよりも、「何か温かい気持ちになりました」と言われる方を嬉しく思います。声そのものとその使い方となったときに、そこには発声と歌唱のように距離があるのです。

 声楽は伸ばした声の高さ、大きさ、長さ、音質が、その人の体からみてベストとしてみやすい例です。条件は、オペラ歌手としてのプロとしての感覚、体、技術で鍛えられ、明らかに一般の人と変わっています。一流のレベルにおいてのことですが、イタリア人ならオペラのような声で話す一般の人もいるのです。そのプロセスなのか方向違いなのか、異様にふしぜんな日本人の声楽は別とします。

 一流の舞台での表現と素人としての日常での表現力は、一見離れているようでも、しぜんにみえることでは一致しています。中途半端な歌やせりふは、つくられたもので、そういう人もいなければ役もないのです。

 ポピュラーの歌声については、体からの声との乖離度がますます広がりました。その代表がカラオケの歌です。エコー(リヴァ―ブ)が包み込んで曖昧にし、聞き苦しさをなくしてしまったのです。カラオケの普及には私も一役買ったことがありました。一人でステージで表現するのに不慣れな日本人に経験を積ませることです。これはカラオケBOX出現で消えました。今や、マシーンの採点への挑戦でゲームになりました。キイやテンポを変えて、歌を自分に合わせベストにできるというカラオケ最大のメリットもなくなりつつあるのです。日本人は、残念な意味で、すごいと言わざるをえません。視覚や味覚にすぐれているのに、ここまで聴覚をないがしろにしてよいのかと心配です。

 ついでに言うのなら、その他の分野、役者でも、国際的に通じるのは、50代以上の一部の声にしか残っていないといえます。地力としての声についてです。