私の立場は、声をみることです。だから、歌としてのよし悪しの判断は別です。歌もステージに近づくほど、どのように周りから必要とされてきたかということによるのです。
しかし、それでは日本の場合、あまりにぶれるので、声と同じく、声を基にした絶対基準を養ってきました。人を育てるときに、どういう視点をとれば、どうすぐれているかがわかるのか、それをどう伸ばせるかで判断しているのです。
最初に、これまで述べてきたことをまとめておきます。
・声のよし悪しと歌のよし悪し、また、ステージのよし悪しは、次元が違う。
・声のトレーニングと作品として切り出された歌は、目指すところも、ありようも異なる。
・歌といっても、CDとライブは異なる。
とはいえ、ヴォイストレーニングや発声は、歌手にとっては歌のために行われるのですから、結びついています。(ここでのヴォイトレは、歌手のヴォイトレとする)また、一流の歌手ほど異ならなくなる。
ヴォイトレのあり方によって、
それが歌というものの前提、基礎になることも、
同時進行のプロセスとなることも、
歌よりヴォイトレが声に関してはより高いレベルを求めることもあります。
つまり、ヴォイトレ→歌の一部、ヴォイトレ=歌、ヴォイトレ>歌、のようにいろんな関係があります。トレーナーは、このうちどれか一つの立場をとっているものです。
私の判断評価については、本来は声中心です。声の中に歌とみる、つまり、声>歌です。しかし、それは理想であって、現実には、何とか歌の形を整えるために声を切り貼りしてつなげていることもあります。現実の仕事は、仕事としてステージ→歌(→声)でくるからです。先の3つの関係を使い分けているのです。それは、他のトレーナーと分担しているという理由が大です。
他の仕事でも、声の本質は、何年かに一度でも垣間見られたらよいといえるほどです。
これは本人のオリジナリルな声と、作品として使いやすい声とが、未だ、日本では一致していないからです。一致しなくてもプロとされるから、いつまでもすぐれていかない要因であると、指摘してきたのです(参考「読むだけ…」)。