今、歌屋音楽の壁(影響力低下、不能)についての問題は、どんなものでもよくなったということが危機的な状況なのです。
よい歌い手がいない、歌がよくないと言いつつ、実のところ、すべての歌がよいという、私の両義性とも似た、いい加減な立場が選択を可能にしました。その間にあるべき豊かな多様性、個人のオリジナリティをスルー、否定しているのです。
聞く人が「性格のいい人だから歌もいいと思う」というような評価は、人間ですからその通りでしょう。私が関わらないなら文句一つありません。しかし、ヴォイトレをしにきて、歌で世界を切り開いていこうという人がそうとなると、「今の私の歌でいいという人もいるからいい」となるなら、真のレッスンは成り立ちません。しかし歌い手も、実力の維持、回復メインでいらっしゃる場合、声での調整がメインとなり、これがヴォイトレのメインとなってしまったのです。
健康維持、老化防止のためにいらっしゃる人もいます。そうでなかった人がそうなっているケースもあります。今の私の立場では、何であれ、続けていくのはよいことと思います。
うまい人が歌っているように歌いたい、カラオケの点数を上げたい―というのであれば、それでよいのです。
私も、健康法としての歌唱、医療と発声としての研究に関わっていますが、ヴォイトレのど真ん中にはおきたくないと、私的に思っています。
他の人が歌わないように歌いたい―ここではまだ、独自の世界というものでなく、歌唱、発声のレベルでのことです。