できた、と言っても、確実にできなければとても使えません。ときたま、できたときだけ人前でやってみせるというわけにいかないのが、肉体芸術やアスリートの厳しさだと思います。
どんな状況でもできるのをもって、応用と述べてきました。オリンピックなら、アスリートは4年に1回、数分の本番のために練習を繰り返します。僅かな時間のため、多くの時間でシミュレートして、確実にできるようにしておくのが、トレーニングです。
確実さのためにお蔵入りになった声や歌もたくさんあります。確実な再現性を、どのレベルで選ぶかが、レッスンでもっとも難しい判断として迫られます。リスクをとって大技に賭けるかどうかです。そういう挑戦心を怠ったらアートは衰退するのです。フィギアスケートでは、選手が大技で転んでも致命的な点にならないようになりました。美しさよりも挑戦する勇気を評価するようにしたのです。
歌はどうでしょうか。喉を壊すのが怖い。トレーナーなら、なおさらです。いらした人の喉に責任があるわけです。そのため、最初から安全が第一になってきました。それは正しいとはいえますが、本来、第一優先でなく、ギリギリの回避をしてでも表現力を高めることに準じることです。日本のお客さんのやさしさが裏目に出るのです。音声かトータルの演出か、どちらの表現をとるかです。この国は、迷わずに声の変化より音響や演出での表現を優先してきたのです。その結果、音声表現力は変わっていったのです。