アニメやゲームなどの影響でしょうか。戦闘能力の数値化などから、あまりにデータに頼ることに慣れてしまいました。それを、まるで科学やエビデンスと思うようになったのではないかと思うときがあります。
数値だけを信用の根拠にしてしまうのは、本当におかしなことです。
アニメやゲームなどの影響でしょうか。戦闘能力の数値化などから、あまりにデータに頼ることに慣れてしまいました。それを、まるで科学やエビデンスと思うようになったのではないかと思うときがあります。
数値だけを信用の根拠にしてしまうのは、本当におかしなことです。
あることを差別しないということは、そのことを表に出さないことです。学歴や性や出自、宗教、肌の色、国籍は、しばしば、公式の場では、タブーな話題となります。
しかし、その問題を論じるときに、たとえば、性のことなら、「男性として」とか、「女性として」とかの意見のように、性が問われてしまうのです。男性9人に女性1人では、フェアに論じられないと思われるからです。
しかし、本当は、そこを問わずに話すのなら、同じ人数比にするような必要はないはずです。
同じ評価の元では、普通に正しく言える、歌えるのがよいというだけのことになります。
カラオケもヴォイトレも、そのくらいのレベルしか求められていないから、よいといえるのです。
しかし、もったいないことだと思います。
同じ現実もなければ、同じ人も、同じ歌も、どこにもないのです。
オリジナリティとは、明らかに「同じ」に反するのです。
一つの評価だけで動かされるのは、とてもおかしいことです。
そうなるのは、どうでもよいものと本質的なものを見分けることができないからではないでしょうか。
それならば、その力をつけることです。
それは、今までの育ちや生き方、やってきたことで大きく変わるところです。
クライアントの意向通りに行うのがよいとは限りません。
そこは、話し合うことにしています。
目的や結果よりも、自分の気分や方針を優先したい人もいるからです。
「白黒つけての答え」というのは、雑で乱暴なものです。
大抵、ていねいにみていくと合っていません。
ほとんどの問題はグレーゾーン、程度の問題だからです。
そこに絶対的な正解も間違いもありません。
「納得できない」、「反対」と言われて、すぐに方針や指針が変わることはありません。
そのようなものなら、ポリシーがないということになります。
方針には、それが定められ、受け継がれてきたいきさつ、歴史があるのです。
その上で、改良、改善していくことは、時代や相手によって必要不可欠だと思うのです。いろんな状況、条件は、変化していくからです。もちろん、必要であれば、熟考の末に、即時に、対応、改良、改善していくように心掛けています。