2024-01-01から1年間の記事一覧
ポピュラーの歌手は、特にそうですが、 独自の歌唱法をとる人が少なくありません。 そういう出し方を好む人もいます。 ファンの人は、それしか聞かないので、 自分ではそれと違うように歌っているといっても、 それしか入っていないので、歌ったらそうなって…
その歌手の歌を歌うと まねじゃないか、と、すぐにいわれる、 そんな人の歌は、彼らのファンもファンでない人も認めないです。 ゆえに、プロにはなれません。 だから、プロ歌手が見本として正しいのでないということです。
フレーズの展開の練習をすればいいでしょう。 流れを作って、できるだけその流れに乗っていく。 一度、流れがでたら、その流れを損ねないようにしていきます。 それが弱まって来たり、一本調子になってきたら、新しいものを、 その延長線上で鋭くいれること…
声で大きく描こうとしてしまうので 全部埋めつくしてしまって、 伝わるものが少なくなってしまいます。
発声法は、それで出せれば出せるほど、それを使いたくなってしまうのです。 そして、自由になれなくなってしまう。 それを離してしまえば、楽に時間や空間が変わるのに、 もったいないことです。
リズムがとれない人はリズムから自由になれないからリズムを学びます。 声も同じです。 日本人は真面目なので、声を自由にするのでなく 声を決めつけて不自由な声の出し方でやっていくのです。
声楽やヴォイストレーニングを行うというのは、 メロディや音程を正すのではなく そこから自由になるために行うのです。
それが結果として正解になる。 正解という言い方はよくないですが。 より伝えられる方を身体が自ずと選んでしまうのです。 声をそのように動かしてしまうのです。
心身の究極の一致が、本当のファインプレーです。 人間が優れたことを発見することでの上達です。 必ずそこにもっていって、そこから違うことをやるのです。
スポーツでも音楽以外の芸術活動でも同じでしょうが、 まず、一つの時空が自分の支配下におかれます。 次に、自分のものがそこに自由におけるようになって、 まわりをしたがえているようになっていくものです。
自由に歌うというのは、日本では、かなりタブーなことなのか、あまり見られません。 自主規制なのか、楽譜やことばの世界に縛られているのです。 しかし、それは、一つの材料に過ぎないわけです。
いわゆる型破りな歌というのは、多少、メロディがそれたり、 ピッチが上がっていなかったりしても、 その自由度をもって、圧倒します。 そこから是正する方向もあってよいでしょう。
サラ・ヴォーンなども、創造しては、きちんと戻す、 完全な伏線回収をしているのです。 その構成展開力を見習うとよいでしょう。
自由に歌うといっても、 音からそれていたり、肝心なところできっちり戻せなかったら デタラメということになってしまいます。
歌で感動するレベルは、守りだけでは、足りません。 どんなに感情移入しても、せいぜいうまいだけです。 これまでをぶっ壊していてこそ、自由な空間が生じて、 そこに描かれた表現をすごいと思わせるのです。
一流のプロがやっているところは、小細工ではありません。 自己表現で留まらず、救い、たとえば、愛や神様への思いを伝えようというところです。 似たようなところはあっても、そのレベルは相当に違っています。
何かを変えようとすると、それが目的になってしまっていることが多いです。 その声でその歌をきっちり伝えようということが、基本です。 そのうえでの微妙な動きを捉え、その延長上に変じるのは、構いません。
うまい歌というのだったら、歌手の方が声も歌も音楽的でしょう。 ただ、その分、役者的舞台要素、即興でフェイクやアドリブ対応の能力に 欠けることが多いのです。
歌の場合は、構成、メロディを重視されるわけですが、 昔からの役者出身者は、歌でも、独自の時空を出して、 そこで何が起きるかを期待させます。 いわゆる舞台パフォーマンスで 自分のオーラとことばの力で押し切るのです。
音楽性としての世界観を持っている歌い手でも、 日本では、演劇的、あるいは役者的個性を優先しがちです。 その人の世界がことばで聞こえてこないと成立しにくいでしょう。
できるだけ歌い手としては、音楽からつくりたいものです。 日本の場合は、言葉の表現から入ることが多いのです。 その人の心、その人の世界観が問われます。
できることとできないことを見ておいて、 できないことに関してはあまり無理はしないで、 なんとかクリアできるようにしておく、 そうした見極めも必要です。 自分が一番心地よく楽に歌えるところを大きくしていくのです。
持って産まれた身体がありますから、 それが、たまたま求める声や音域にあっていたような、 そういう人は、しぜんとできるかもしれません。 しかし、そうでない人にとっては、難題ばかりです。
多くの人は、トレーニングで、なんでもできる、 一流のオペラ歌手と同じ声がでるようにもなると思っています。 しかし、そういうことなら、一流といわれません。 多くの人がトレーニングしても、そうなれないのが、 一流なのです。
本来、発声の基礎がきちんとしていたら、歌での高い声であっても、 その人の潜在能力までは開花します。 自分が前にできなかったこともできるようになる可能性が広がっていくでしょう。
無理なことを重ねることで伸び悩んでしまっているケースもみられます。 ヴォイストレーニングからいうと、できるだけ無理なところは、 トレーニングの中でも別扱いで調子のよいときの応用課題としておきましょう。 基本的なところ、今、確実にできるところを…
いつも正しいところで歌うのかとなると、それは違います。 正しくうまく歌えばいいということではなく、 本来は自分のもって生まれた身体のところで歌うのをめざします。
どっちが正しいかというときには、 歌になれば、その現場の方が正しいとみなければいけません。
もしプロというものが定義できるなら、それは優秀ということではないでしょう。 そうでない意味で、定義するなら、自分だけに正しいこと、他の人がやったら間違いですけど自分には許されることをやっている人です。
トレーナーに習っていても、そのトレーナーができることより、できないようなことを考えましょう、といっています。 日本人は、トレーナーに憧れてしまい、同じ声をまねていこうと思ってしまう人が多いからです。