12.表現/オリジナリティ
自分ではなく普遍的な存在としての身体を出していきましょう。 怒りも自分の怒りではなく、怒りそのものを表現するのです。
トレーナーのまねをしてもダメだといっても、形をまねてしまうものです。 形を見本にして、自分に内面化して身体に出そうとするのはよいことではありません。 それを避けるために、一流の人は見本を見せないようにしています。
あなたの求めている答えは、私やトレーナーではないはずです。 模範的な答えはどこにもないのです。 この場で求めるものとして探していけばよいのです。
身体の使い方というのが、体験です。海外の人たちは、何でも体験することが好きですが、日本人はどうもそのあたり、臆病であったりします。 心で感じたことを身体で思い切って表現するようなことが抑えられていた歴史があり、性格的にも慎み深いからだと思い…
何のための声なのかというと、表現するための声です。表現とは、人に伝わり人の心を動かすことです。となると、これは仕事にならないわけがありません。その声で自分を信頼させられるかどうかです。 声ですから、歌わなくても話すだけでも、いろんな結果が出…
シンガーソングライターなどに対して、声優や俳優、ミュージカル俳優の異なるところです。トレーニングの本質的なところは同じでも、基礎と応用にかける比重に違いが出てきます。つまりは、ものまねのように器用に即興で、いろんな声の使い分けをできる能力…
声優を見ていると、それなりに多彩な才能が集まっている現状では、器用なだけでは務まリません。本当に声のパワーやインパクト、強い喉力がなければ、とても主役級の仕事は務まらなくなってきています。 それに対して、総合的に加工できる歌唱の方が、大きく…
再三述べているように、お笑い芸人、そして声優の方が、歌唱においてもパワフルに表現できるようになってきているわけです。今の歌が、そういうものでないところを求められていることも大きいでしょう。
人間同士ですから、そんな綺麗事ばかりではいかないこともあります。オーディションであれ、配役であれ、実際には競争だからです。ほんの一握りの並はずれた才能を持つ人以外は、そういう争いの中で、選ばれ、仕事をして、実力と実績をつけていくのです。
ここでも、希少なる実力者を除いては、さらなる自分の才能の開花ということよりも、まわりの求めることに合わせる能力を磨くことが、先に問われてくるのです。 本人の身体能力、特に、喉に関してですが、そこに合わせた基礎、最も理想的なオリジナリティに根…
あたりまえのことが、あたりまえのようにできるまでは、合理的な目的のプロセスをとれるので、そうしましょう。目的が明確だからです。 本来、アートであれば、それを超えたところに行くことを目指すのです。 そのための基礎を徹底する必要があるわけです。
そんなことがなかったから、あるいは、なくなったから、イマジネーションが広がって、作品ができるということがあります。
舞台で演じられるのは、1つの死です。 存在感などというのは、消える方が目立つのです。あるのにないもの、そこにいるのにいないものであるのです。
どんなにオーケストラが発展しても、太鼓を叩く音は人を引き付けます。どんなに美しい声で歌っても、赤ん坊の泣く声の方が強く心に刺さるものです。どんなに特殊効果が大規模な戦いを演出してみても、マンツーマンの戦いが映画のメイン場面となります。 つま…
キャラというのは、反応パターンにすぎません。 本当の自分ではないもの、いい顔をするためにつくったり、用意したりします。 自分であるという自覚を、必ずしも持てないから、キャラなのです。
「手を出す」は、意識的です。しかし、「手が出る」は、体と一体化しています。 「目がいく」「気がつく」「腹が立つ」、これらは、体がそうするのです。 その分、しぜんでパワフルになり、表現しなくても伝わるのです。
予言者、演説家、カリスマ、巫女、芸人の出したものは、リアルな瞬間を生きる、突きつけるのです。多くの物語が口承されています。 稗田阿礼、琵琶法師、吟遊詩人、瞽女、香具師の口上など、学んでみてください。
自分の体を客体ではなく、主体として捉えることを試みます。 ことばで動かされるのではなく、自らの感じることで動くのです。 つまり、反応して行動する。するとそれが表現のきっかけとなります。
同じ言葉をくり返すと、「またか」と思われるのは、知識、情報だからです。 もう聞いたこと、知ったことは、ニュースにはなりません。 そのくり返しは効率的でないし、時間の無駄と思われます。 しかし、芸事、たとえば落語や歌は、そこから始まるのです。 …
冒険は、未知への探検です。未経験なことを味わうことに人は憧れます。 それをうまく行おうとか、正しくしようとなると、学びごとです。 それよりは、なんとはなしにわかって、腑に落ちていくことが重要なことです。 論破したり証明したところで、わかること…
ことばはあっても、言い表すのには、いつも足りません。 ことばの示す実体は、ほとんどないのです。 「自分」というのも同じです。 このように思いと表現には、ズレがあります。 そうしたズレの感覚が体にあって当然なのです。 それが生きているということで…
闇や毒は、かぶれる、はまるものです。 毒出しが、創造、表現でもあります。 醜も同じです。歌舞伎やオペラには、不義や人殺しのテーマが何と多いことでしょう。
声を感じたいから、声をなくす。 不完全で未熟なものをイマジネーションで補って鑑賞する。 日本では、歌のうまくないアイドルのファンが多いのは、そういうことでしょうか。 余白をもつ、水のない枯山水のように、そこに感じ入るのでしょう。 秘仏といって…
表現活動に関わることでは、そのレッスンやトレーニングに客観的基準や定義などありえないのです。それは直観と創造力、イメージと想像力のなせる技です。つまり、個としての感性を高めるトレーニングをしていくことが大切です。
エビデンスとは、「今の私」に対してではなく、「他の人の以前に」行った結果にすぎません。 動物であれ、欧米人であれ、過去の日本人であれ、自分ではない点は、確かなのです。そして、すべては「以前に」行ったものであって、「今」ではありません。 「当…
同じ評価の元では、普通に正しく言える、歌えるのがよいというだけのことになります。 カラオケもヴォイトレも、そのくらいのレベルしか求められていないから、よいといえるのです。 しかし、もったいないことだと思います。 同じ現実もなければ、同じ人も、…
元より、日本人は、歌一曲を聞く体力さえ、早くに失ったように思います。 が、パワーをなくしたアートは滅びます。欲や気力の衰えでもあるのでしょう。
方向修正は、本番中でも生じます。 まして、練習となると、それのオンパレードです。 人前で評価を得ようとしてみせるのは、オーディションと同じで、アマチュアかプロの駆けだしのレベルです。 プロなら、客も共演者も 味方にします。オーディションでの審…
アートは、総合的なものなので、ふしぜん極まりなく病的な声でも、人を感動させたり、プロと認められたりもします。だからややこしいのです。
感度を上げ、精査していきます。そういう身体で心もつくりあげていくのです。 対するのではなく一体化する、入り込む、組み込むような意識が大切です。 スポーツでも、タイムレースより競う競技の方がおもしろいのは、競うだけが見所ではないからでしょう。…