ヴォイストレーナーの選び方[アーカイブ版]

声、発声、聞くこと、ヴォイストレーニングに関心のある人に  バックナンバーは「夢実現・目的達成のための考え方と心身のトレーニング」をご覧ください http://bvt.txt-nifty.com/trainersen/

質問の意味

私も、先生に、本当に知りたくて質問したことはありません。コミュニケーションのツールとして、ときに使いました。まともに質問できるレベルになって、ちゃんとした質問をしよう、と思っていました。会っている時間に、下手な質問をたくさんするのは愚かなこと、周りの迷惑にもレッスンの邪魔にもなる、レッスンの質が落ちると考えていました。

 質問して答えをもらったところで何ともならないし、質問を褒めてもらいたいなら別ですが、こちらが見透かされる恐怖もあったのです。今も、大体はそれで合っていると思います。そういうものは、その関係性、目的、レベル、タイプ、そして場、環境にもよるでしょう。当然、時代や育ちにも。

 私は、自分には否定しているものでさえ、皆さんの場としては、必要であれば選べるものを提供しようとしています。そうする器をもつ努力をしています。

 仮に質問は不要であり不毛だと思っていても、(そんなことはありませんが)研究所としては、質問を受付け、回答しています。<Q&Aブログ>は、この分野では世界最大のものとなっています。質問から学ばされるのは私たちだからです。これはクレームと同じく、気づきの材料です。

体で聞く☆

昔の人、というと失礼ですが、私が研究所を始めたときには、レッスンの質問は、ほとんど出なかったのです。レッスンを受ける前に、大方は片付いていました。大体は、事務的な質問だったのです。レッスンでは、参加者はひたすら体で吸収することに専念していたともいえます。

 質問しにくかったのかもしれませんが、そういう雰囲気ではなかったのだと思います。私にも、質問を聞いたり教えようとする姿勢が、あまりなかったのです。

 それは時代のせいでも私のせいでもなく、いらした方が優秀で自立していたからです。当時、習うというのは、質問などせずに、まずは始める、質問のできるレベルになることが先決という暗黙知がありました。

私も若輩でした。他のトレーナーは質問しやすかったので、彼らを介して質問回答集をつくりました。どのレッスンでも感覚を集中させたかったからです。

 今と異なり、レッスンで学びに行くのは、質問やおしゃべりをするのではないという風潮もありました。体を使った人は黙ってコツコツと変わっていくのです。頭しか使えない人は身につかず口から文句が出てくるのです。まさに対照的です。

頭を切ること

スポーツをしたり自転車に乗ったりすることは、大脳でなく小脳が司ると教えられました。頭でなく体で覚えると言われてきました。頭での思考や理解がないとはいえませんが、練習を重ねることで、誰もがあるところまではいきつくのです。反面、いくら考えたところで、体を動かしてくり返さない限り、何ら身につかないのです。

 わかりやすいのは、できないことができたときです。スポーツも自転車もピアノを弾くのも、すべて、考えることが切れたときに体でできていたでしょう。つまり、考えが切れていたときに起こるのだから、考えてはだめなのです。

 これは、できたあとに、我に返って気づくのです。頭が働くことでもわかります。考えや頭というのは、意識というようなことでしょうか。

 ピアノでいうと、何も見ずに一曲丸ごとなら弾けるのに、途中で一か所躓くと、そこから先は弾けなくなる、そういうときに、最初からやり直せばまた弾けますが、間違ったところで考えたら指も動かなくなる。考えないなら指が動いてできるのに、考えるとできなくなってしまいます。それを忘れた翌日には弾けたりする。歌詞を忘れたときも似ています。ですから、禅では、頭を切る修行をするのです。

馴れる

私たちは頭で考えて動いているつもりで、そうではありません。頭をストップした方がうまくいっていることを知ることなのです。目的地はセットしなくてはいけませんが、同じところへ毎日行くのであれば、家を出たら会社や学校に着いているものです。これもトレーニングです。体が馴れて、そして覚えたということです。もっとわかりやすいのは、自転車や車の運転でしょう。楽器の演奏でもよいです。

 私は、長年のペーパードライバーから車を運転し始めてしばらく、頭を使うとわからなくなることがありました。アクセルとブレーキを間違えたり、左足でブレーキを踏もうとしたこともありました。慌てるとひどい、ギアをNに入れたり、パーキングブレーキを解除し忘れたり…。教習所のときを思い出してください。

人は考えてやるのではなく、考えなくてもやってしまうものであると知りました。考えるとできなかったり、うまくやれなくなることを、捉え直してみてください。

流れ

日本人のスムースな横断を見られる、渋谷の109前の交差点は、すっかり外国人の観光名所になりました。私は、上京したとき、渋谷駅でたくさんの人を見て具合が悪くなりました。その話をしたら母がたいそう心配したのを覚えています。学生の頃には、いつのまにか人にぶつからずに大勢の行き交うなかを歩くことのできている自分に気がつきました。部活のバスケットボールの経験が活きたとも思っていましたが、東京に住んでいる人ならぶつからないのです。

 ラッシュにも鍛えられました。流れに逆らわないこと、脱力すること、自らを無とするということです。大きな流れに入って、そこに身を委ねるのです。結果としてスムースにしぜんと電車に乗り、しぜんと階段を上がっているのです。自分で乗ろうとか上がろうとせずに、その流れに加わり、周りから押されるのを受けていれば、しぜんに足が動いて、なるようになります。日本のラッシュは、個人の意識や行動する力を奪う働きをしているのではないかと気づきました。「降ります」と、流れのないところで電車の出口に近づくことに、けっこうなプレッシャーを感じる社会になっているのです。私は、ラッシュでは、座席になだれ込まないように流れをくいとめる大魔神のような役割でした。筋力を最大限使って支えていました。背が小さく宙に浮いてしまっている女子などと、どちらが大変だったでしょうか。

体感

人工のセンサー万能の時代になっても、トレーニングや修行を積んで研ぎ澄まされた人のもつ感覚には、いつも驚かされます。千原ジュニアの番組「超絶凄ワザ!」を見ると、達人の技は、センサーや精巧な工具を今もって超えています。1000分の1ミリなどというレベルで触感をもって削り出す技術に使われます。そういえば、坂本龍一氏が、リズムで1000分の1秒の違いで異変に気づく、1000分の40秒では明らかにわかるということを述べていた覚えがあります。

 トレーニングした人と、トレーニングしていない人との差は著しいものです。

 小さな頃、野球で、フライを獲るのに、うまい子と下手な子がいました。何秒後、何メートル先のどこにいたらキャッチできるのかを予測して行動する体感力です。高度な物理学でも計算は難しいほどで、ロボットがようやく追いついてきたことと思います。天空に上がったボールを射撃することはできるかもしれないが、ピッチャーのフォーム、バッターの構え、その打撃音から瞬時に落下点の検討をつけ、位置方向を捉え、予測して動き、修正してキャッチするのは、経験と勘です。そこでは、どのくらいのデータがいるのでしょうか。

 高度に発達しつつあるAI、センサーやロボットは自然の世界や、しぜんの生み出した動植物に追いつこうとしています。ようやくダンスや階段を昇降できるレベルになったところです。最後までロボットに取って代わられないのはどこなのかを考えることです。

 

胎内巡り

会社の研修などに、暗闇を歩くものがあるそうです。そこでは耳や体の感覚が鋭くなります。

 お寺で、いつも、あるいは特別な時期に、仏様の下に潜れることがあります。有名なところでは、長野の善光寺や京都の清水寺、そのほかでも、私は何回か体験しました。壁や手すりを頼りに真暗な床下に降りていき、進みます。

 経験のない人は、お化け屋敷や洞窟、鍾乳洞の探検などを思い出してみてください。

 見えない中で耳と手がセンサーとなり、嗅覚も、視覚も研ぎ澄まされます。頭をぶつけないように腰をかがめたりします。

 ライブやコンサートで消電といって照明を消すのは、ステージに集中させるためですね。歌では、耳で聞いてもらいたいものほど、明かりを落とします。ピンスポ一本にしたりするのです。注意や集中力を喚起するためです。闇にするのは、耳の力を取り戻すよい方法です。

 

声は音の世界

声は音ですから、聴覚で捉えます。自分の声は、骨振動でも自分に伝わっています。他の音も体でも捉えているわけです。限度を超えた低周波や高周波は、人間の耳の鼓膜だけではとらえられません。

映画館やお祭りの大太鼓、花火の音など、重低音は、心臓や胸、脳、足などにダイレクトに伝わりますね。それは体感で触覚といってもよいくらいです。波動の高いところには、光、色の区分けとなり、視覚もあるのです。

 かつては、多くの人は、ラジオやレコードに長らく耳を傾けました。それは聴く力を磨くベースになりました。遊びも仕事もアウトドア、自然のなかで行っていました。それは体で感じるベースになりました。

今の私たちは、ずっと視覚優位の世界にいます。インドアの、PC、スマホのスクリーンのなかにいます。それを切り替える時間を意図的にとる必要があると思うのです。

21世紀には

オペラも邦楽も21世紀になり生き残るのに青息吐息です。歌の番組はプロレスやボクシング、野球並みに低迷しています。スターが生まれなければ滅びる、ヒット、人気商品が出なくては、衰え潰れていくのです。

 多くの人が長く愛するもの、それこそが基本のあるものです。私たちの学ぶべき“クラシック”としての基準です(ここでのクラシックは、オペラ、声楽のことではありません)。それは、ときに、その時代、その国や地方のその場限りの大衆性と反します。

 根本を考え、そこをトレーニングします。世の中を、次世代を先駆ける感覚を形にすることです。その一つのツールとして、ヴォイトレを捉えるということなのです。ちなみに、ローリングストーン誌が世界のシンガーのランキング100を公開しています。それをみると、いろいろと考えさせられるのではないでしょうか。

 

根本のもの

美空ひばりは、玄人受け(プロから目標とされた)だけでなく、大衆受けし、死して十数年経ってもセールスは続いています。紛れもなく、日本を代表する偉大なアーティストです。これで国際的なヒットがあればと残念な限りです。歌は、その大衆性こそが、歌い手の知名度に表れているのです。

 誰をあげるかで、聞く人の基準、判断がよくわかります。好き嫌いであげる人が多いのですが、プロでは、音程、リズム、発音の確かさでみる人、音質、発声でみる人もいます。歌には歌唱力とはいっても感情表現、感覚的なこと、聞く方の個人的な感情や育ちが入るので、なかなか客観的にならない評価しがたいものです。

 私は、これまで出会っていない人、自分の人生と別のところにいた人に見本をとることを勧めています。

学ぶというのなら自分に入っていないものも学びたいものです。それは苦手や嫌いなタイプの歌手、トレーナーがもっていることが多いのです。となると複雑です。

・表現レベルに芸能としての歴史、浪曲―歌謡曲―JPOPS(日本)

・それに対するワールドミュージック、世界のPOPS

・大きなくくりでは、学校、小説家、歌、声優、お笑い、神話、詩、本―漫画―アニメ、演劇―映画、ラジオ―TV、レコード―CD-DVD、

 世の移ろいにつれ、いろんなものの流行り廃りがあります。

 そこに仕掛けるプロデューサー、それを受けとめたり流していく大衆、群衆、個衆(個人志向)と、一見すると、とりとめのないもののなかで、普遍的に共通しているものがあります。その根本を学ぶことを知ることが大切なのです。