夢実現・目標達成のための考え方と心身声のトレーニング(旧:ヴォイストレーナーの選び方)

声、発声、聞くこと、ヴォイストレーニングに関心のある人に  バックナンバーは「夢実現・目的達成のための考え方と心身声のトレーニング」をご覧ください http://bvt.txt-nifty.com/trainersen/

力を入れて戻して

声と息と気とは、私のなかでは、ほとんど同じ概念です。

それらは自分勝手に出したりコントロールしようとしたりしない方が、結果としてうまくいくのです。

 力を入れて心身を固く緊張させるのは簡単ですが、その逆は難しいです。

そこで、たとえば、力は入れ続けられないので、力を入れて戻すプロセスで、一時、よい状態ができやすいことを利用するのです。

それが、スポーツなどでの従来の大半のトレーニング法です。

量をハードにして、限度で崩壊させて、宝を拾うのです。

これは、一歩間違うとハイリスクゆえに、指導者につく方がよいのです。

補強して拡大する☆

不要なものは、妨げ、邪魔するものです。それを取り除くことですが、それで終わるのではありません。むしろ取り除くことには、あまり気をとられないことです。補強で器を大きくして、そうした妨げが目立たなくする方がよいでしょう。

どんなに妨げを除こうとしても、それ以上のものがなければ、取り除けません。それを目立たなくし、隠してみても、何かが出てくるわけではありません。

何かが出てくるようにしていくには、まず、何でもよいから出すことです。声でいうならば、パワーのある声、つまり、心身の伴った芯のある声です。

体のしぜんと規範☆

体の声に耳を傾けます。そして、ただの心地よさ、リラックス、解放などではなく、ある規範においての自由の獲得を目指していくのです。

ストレートにいうなら、自分の邪魔しているものを取り除いていくのですが、それは、心身を解放するだけでは不可能です。そこでは、内なる補強が不可欠です。

 しぜんに溶け込むのではなく、むしろ、そのエネルギーを集約して発露するということです。それには、アウトプットの流れに吸引されるような形が理想です。そこで、アウトプットできるようにインプットを位置づけていくのです。

一見、自分を否定するようでありながら、そこを超えていきます。そのために自分を知り、自分を大切に扱わなくては、何らこなせないのです。自分とは、ヴォイトレでは、自分の声ということです。

共有とシェア

トレーナーとの研究は、シェアすることに意味があります。

ガイダンスとしても、ただの道案内ではなく、道なき道をどう切り拓くかという仕事です。

京大人文研の共同研究などの方法を聞くと、かつては、日本人の共感能力もすごかったのだと思います。説明能力をつけるのは、一人のため、そして、人類のために必要です。

何事もリスペクトして始めることです。

先人のもつ知りえない記憶、ことばにならなかった経験を救いあげて、残していくことが重要なことと考えています。

一体感と生身

人間社会において、人権が拡大したのは、他人の気持ちがわかる、それは大切なことだという共感能力を多くの人が共通して持ちえたためでしょう。

集団に同一化するのにも、人は、はまっていきます。「第九」など、集団でのコーラスでは、一体になる心地よさがあります。

もどかしさから心地よさになっていきます。

ことばが声として身体でわかっていくのです。

自分の生身の身体感覚で扱うのが、歌や声です。

それに対して、自分の使うことばだけでの思いの吐露、告白、独りよがりの日記、自叙伝は、偏狭で心を打たないのです。

共感とスタンス

人間は、他の人や別のものと共感する、同期する、スキャニングすることにすぐれています。それは相手の身体や別のものの形をイメージして、見たり、聞いたり、触れたりしている状況をトータルで捉えられるからです。

その枠がみえること、そして、そこに立って見ること、それをスタンスといいました。

声楽と海外のヴォイトレと私のヴォイトレ☆

日本の声楽では、当初の圧倒的なギャップの克服から、メソッドが使われてきたのです。

そこで実績があったのです。クリエイティブでないのを承知で、私は、アンチ声楽でもあったのに取り入れ、移行させてきたのです。

少なくても、フィジカル、メンタル面での条件を備えた人を調整している海外のヴォイトレよりは、声を養成する点で見習うところが大きいからです。

つまり、日本人にとって、声楽の基礎トレーニングには、呼吸や喉が無理なく鍛えられるプロセスがあるからです。

長期的にみると、呼吸や発声をベースで扱うフィジカルのトレーニングを含むのです。

 

それを特化させたのが、私のブレスヴォイストレーニングでした。つまり、今や、そこに最初から入れず、研究所での準備期が必要となったわけです。

というように、世の中の変化によって、ど真ん中のものが端に寄ってしまいました。

そこで、日本では、本当に学ぶ人の層が厚くならず、一流の人も出にくい構造となっているのです。

一般化と声楽のメリット☆

今、ヴォイトレが、ここまで一般化し普及したのは、むしろ、一時代前のレベルと比べてフィジカル、メンタル面で落ちてきた人たちのための基礎、リハビリ、調整のように使われるようになってきたからです。

それは、年配の人にも若い人にも通じることとして、共通になってきたことです。

 

落ちてきた、というのがわかるということは、ヴォイトレも、そのギャップを埋めるものでしかないわけです。

そうなら、西洋から入れた声楽が得意とするところです。

自信の力

日常に使っている声は応用である点が大きいのと、声の力そのものが、トータルで関わる力のなかで占める割合が落ちてきているのです。

なおさら、声は、確立しにくくなっているのです。

求める結果とは、何かを見据えていきましょう。

 

メンタルなことでは、自分がコントロールできるかどうかの自信によって、かなりのところまで支えることができます。

最悪でも、ここまでしか落ちないし、そこからの回復法はわかっているとなると、ヴォイトレとしては、充分な役割を果たすわけです。

ヴォイトレの不毛

どんなスポーツでも、最初は、そのための特別のトレーニングはなかったのです。

しかし、どんな分野でもレベルが上がると、それを支えるトレーニングが確立してきます。

以前よりもレベルアップして、トレーニングなしでは、そのレベルについていけなくなるからです。

 

そこで重要なことは、トレーニングと結果が結びついているかということです。

これはスポーツだけでなく、楽器のプレーヤーなどにも共通していることです。

しかし、ヴォイトレでは、個人差が大きく、厳しくみると、まだそこまで特化されたトレーニングになっているところは、とても少ないと思います。そこから、よくよく考えてみるとよいと思います。

ヴォイトレと始点

かつての歌手も役者も、どんな一流の人でも、「ヴォイトレをしていなかった」という事実と、ヴォイトレをした人が、そういう人の実力を超えているわけではないという結果をふまえておくことです。

しかし、それはヴォイトレという名で呼ばないだけで、「実質、ヴォイトレと同じことをやっていた」ということです。

 

私のヴォイトレは、そこを始点としています。

これは常に私が頭においていることです。

ヴォイトレは、決して特別なものではないのです。

もっとも大切なのは、そこでいうヴォイトレとは何かということです。

ヴォイトレのスタンス

発声、歌唱、せりふ、あるいは、声に関わる職につくには、ヴォイトレが必修と考えること自体、おかしいのです。

何しろ、ヴォイトレの定義とか枠自体、ありません。

声のトレーニングとしか言っていないのですから。

 

 多くは、誰かが勝手に選択された枠で考えているだけです。

その前に、そんなものに関わる必要があるのかを考えることです。

もっと他の手段に、よいもの、必要なものはないのでしょうか。

あれば、そこからスタートしても、よいのです。

 

私も、ここにいらした人に、そういうスタンスを告げます。

それで考えつかないし選べないなら、「ヴォイトレを選んだのだから、声から始めようか」となります。

自由なところがよいと思って欲しいものです。