ヴォイストレーナーの選び方[アーカイブ版]

声、発声、聞くこと、ヴォイストレーニングに関心のある人に  バックナンバーは「夢実現・目的達成のための考え方と心身のトレーニング」をご覧ください http://bvt.txt-nifty.com/trainersen/

主語のない日本語

「日本語には、subject(主語)がない」などという批判は、欧米のグラマーに日本語をあてはめているからです。ボクシングのルールで、柔道をjudoにしてしまったのも乱暴なことだと思います。

 伝統を尊重する私も、このところの柔道、相撲、野球といった、かつて花形であった各界の幹部のには、日本の古いものの頑なさをみるとともに、時代の波のなかでの対応に大変なのだと同情もいたします。上からはしばかれて育ったのに、下からはパワハラと訴えられる、板挟み、中間管理職の悲哀です。しかし、そこを乗り越えて改革しなくては未来はないのです。

 そこでみえてくるのは、組織、集団の中で責任をあいまいにしている、個人としての主体性のなさです。まさに日本人らしいのです。

 相手によって自分の呼称さえ複雑に変えなくてはならない日本語は、そういう宿命を背負っています。自分以外であれば、相手が誰であれ、一人でも何千万人でも、youだけですむ言語を見習うことも、ときには必要だと思うのです。

日本語は会話向き

日本語は、対話型のコミュニケーションには、不向きな言語です。すでに関係ができている相手に伝えるには、うまく使えるのですが、初対面、特に1対多では、混乱しやすくなります。人前で話すのが不得意な人が多いでしょう。

 主語を出さず、受け身で婉曲に伝えます。伝えるよりは、相手が察していくようなもので、「ハイテキスト」なコミュニケーションといえます。

 誰でもが知り合いの同郷の徒、つまりrural(田舎)での交流のものです。

今、使われてよく批判されている「…にほう」「…から」「…とか」という、方向でぼかす婉曲表現も、その一つの例です。主体性に欠ける自己責任を問わない社会、匿名、世間、派閥といった、集団を中心とする社会の特徴がよく表わされているのですね。

対話と会話

「日本には会話しかなく対話がない」、と言われてきました。対話とは、第三者を聞き手においた対談を考えるとわかりやすいのでしょう。1対1で話していても、その2人の中でなく、他の人が聞いてわかる、つまり、ドラマの出会いのシーンのように、観客がいても、そこへの説明が確立しているようなもののことです。簡単にいうと素性を知らないもの同士の話のスタイルです。

 私はワークショップでは、1対多でも、そのなかの一人の相手に語りかけるようにしています。そのときに、常にその人だけでなく、その人を通して他の人に伝えようとしています。これは対話です。

 時間的制約があるのと、1回きりのケースなどでは、初対面で何の事情も知らない相手の前で進行しなくてはいけないからです。全員に語りかけても伝わりにくいことを、伝わりやすくするため、もっとも適切と思われる候補を選んで、その人をだしに進めていくのです。

 1対多では成り立たせなくてはいけないことが、1対1でもそうなっているのかというのをみると、それが会話か対話かわかります。親しすぎるなかでは、多くのことが省かれて、会話となります。

日本人と日本語

日本は、古くは中国から、近年は欧米からの影響を大きく受けました。そのために翻訳による知識の導入、それは読み書きが中心となり、日本語という言語を特殊に発達させてきたのです。

 日本語は文字に複雑ですが、音声にはシンプルです。音声での言論である対話、議論、対論などに重きを置かないのです。

 日本の社会は、上意下逹ボトムアップ年功序列、終身雇用を中心とし、リーダー、エリートの育成ができない、この傾向は21世紀でも変わりません。個人としての実力よりも、集団、組織が優先であり、個としての信用、保証は重視されないのです。

日本人の音声力の弱さ

日本人の音声力の弱さと、その原因について、別の面から指摘をしたいと思います。これまで、私が述べてきたのは、日本人、日本の特徴として次のようなことでした。

 島国の村社会での生活。小集落。

 アイヌなどとの混合はあったとはいえ、比較的、移民、流民の少ない固定化された人間社会。

 「壁に耳あり障子に目あり」の、木と紙の狭い家、プライバシーのない「家」社会。

 農耕社会の長老政治。長いものに巻かれろ。

 農業は、天気などに左右されるもので、長年の経験がものをいいます。しかも、稲作などでは集団での作業で和が尊ばれます。若者がリーダーとなる狩猟と違い、実力社会ではありません。

 日本人はアフリカからもっとも遠い地まで逃げてきた、世界の中でも穏やかで争いを好まない、その多くは滅亡したような類の生き残りの民族だったのではないかと思います。

 世界でも稀にみる長期に継続している天皇制です。何事も上からの変革だけで継続性が高く、他の国のような民衆による激しい革命がなかったのです。

自分に合ったやり方

声の弱かったために、丁寧に丁寧に声を扱っていた平幹二郎さんと、強く出し、潰しては強くしていった仲代達也さんの話をときおりします。自分に合ったやり方を見い出すこと、知ること、選ぶこと、そして、つくることです。ヴォイトレも、表現と同じ、個性と同じで、一人ひとり違うのです。どのやり方がよいなどというのを自分不在の、机上の空論に巻き込まれないようにしましょう。

 誰かがよいと言っても、そこに大して根拠がありません。あなたに対してどうなのかとなると、ワンオブゼムに過ぎないこともよくあります。電化製品やレストランの評価でもかなりばらつくでしょう。人によって味覚も違うのです。未熟なトレーナーほど、自分が一番よい方法を知っていると思っています。

 自分×将来への時間×努力×やり方(メニュやトレーナー)という変数を無視して、一つだけを見ても何にもなりません。あなたがレッスンをあまりうまく役立てられていないなら、こういうことをもう一度考えてみてください。

限界の突破法

指導となると「喉が…だから」「歯や歯並びが…だから」「かみ合わせが…」「舌が…」「声帯が…」「口が…」できないと言うように注意をするのがトレーナーです。わかりやすいことです。

 一つのことが原因でできないということは、確かにあります。しかし、多くは、いくつもの原因があります。全く異なる他の方法で解決が図れることもよくあります。

 「医者に行く」のは簡単ですが、医者ならどこがよいのか、トレーナーや、他の専門家がよいこともあります。アドバイスというのは、けっこう雑なものです。

 限界は、壊して超えるためにトレーニングすることです。

 本当に必要があるのかを知ること、時間や内容に成果が見合うのか、他に力をかけた方がよいのではないか、いろいろと考えられます。ハンディキャップがあるとしたら、それを克服して限界を、より厳しく知るなかで対処する方法を編み出せばよいのです。

限界の対処へ

レーニングを行う目的の一つは、自分の「限界を知るため」です。限界というのは、メンタルとフィジカルとあります。

最初に声を出して、このあたりが限界というのは、まだ自分の思い込みです。これをメンタル0、フィジカル0状態とします。リラックスしたり柔軟をするとメンタル-1、フィジカル-1、トレーニングを受けるとメンタル-3、フィジカル-3くらいになります。

 ビギナーは、やっていないのですから、初めの状態が変わると、その日でも30%くらい、実力はアップします(何をもってか、この数値も適当ですがイメージで)。そこを最初の限界としておきます。

 それを大きく変えたいなら、「体から変えること」と言っています。この数値を声域でとるのは、あまりよくないことです。優先したいからバランスがさらに偏るからです。すると、高い声ばかり出そうとして声量が出なくなります。声量ばかりにこだわると声域は狭くなるのと逆です。

同時に、一瞬に得る

ヴォイトレというのなら、声に向きあうことからです。そこを原点としてください。体の肉声を出すこと、その上に声量、発音や声域があるのです。

 急がないことです。声に向きあえないのは、覚えることや間違えずにくり返すこと、せりふや歌詞に加えて、ピッチやリズムといった楽譜に囚われてマスターしようとしているからです。

 ある意味では、こういうものは「同時に、一瞬に得る」ものです。そこを経験したら、また細かく分け、順序だて、一つ上の次元を目指すのです。そのための体を用意し、感覚を磨いて、保つのです。

 せりふも歌も声で仲介するメディアに過ぎないのです。どんなことば、メロディでも、それを正しく再現すればよいのでなく、演者が魂を吹き込み、ありありとしたリアリティをもたらさなくてはなりません。やらされている、歌わされている、すごかったもののコピーをしているだけ。それでは、ディズニーランドです。

個性と成長

型にあてはめられて、そこで個性が死んでしまうというなら、その程度のものに過ぎないので、そういった型がいけないとは思いません。ただ、型がなくとも形にはまってしまいやすい人がいます。形にはまるのが勉強と思い、はまりたがって努力する人です。他の人の言う通りに動く人、つまり、器用な人、上手く立ち回る人、正確な人、いつもそれなりの力をキープできる人、絶対に休んだり、遅刻しない人、こういう人を私は、優等生と呼びます。そういう人は大切ですが、そこでばかり選ぶことがよくないと思うのです。

 現実がそうであれば、それに対応するためにトレーナーも、相手をその方向にもっていくわけです。そもそも、トレーナーも優等生が多いのですから、頑張るほどに、そういうふうに育つのです。

 「個人の色よりも、組織集団の色が強く出る」のは、日本の会社も劇団もプロダクションも同じです。よし悪しともにあることでしょう。

 しかし、喉や声は個人のものです。他に合わせようとすると、中級レベル(アドバンス=A)に早く到達するものの、上級レベル(ハイレベル=C)はいかなくなりかねないのです。トレーナーは、そこには細心の注意をもってあたることです。