もしかすると、その方法を使わなくとも同じ成果が出ていたかもしれません。しかし、その検証はできないのです。
何がどう効いたのかがわからないことは、よくあります。効きそうなら何でもやってみる、少しでもより早くよりよくなればよいのですから、考えるべきことは、副作用だけです。それがなければどんな方法も使ってみるということになるのです。しかし、同時に処すると、ますますわからなくなるでしょう。
もしかすると、その方法を使わなくとも同じ成果が出ていたかもしれません。しかし、その検証はできないのです。
何がどう効いたのかがわからないことは、よくあります。効きそうなら何でもやってみる、少しでもより早くよりよくなればよいのですから、考えるべきことは、副作用だけです。それがなければどんな方法も使ってみるということになるのです。しかし、同時に処すると、ますますわからなくなるでしょう。
たとえば、血液が汚れているとは、浄化できるとは、どういうことなのでしょう。「笑うと免疫力が上がる」というのも、笑えるというのなら元気ということもあるでしょう。
似たことでは、病院で、「大病のため、声の出なかった人が、ある方法で声が出るようになって退院した」ような例です。これは、退院できるくらいに体力も体の機能も回復したので、発声機能も取り戻されたのかもしれません。
生来もっていた能力に、生後、獲得されたものが加わってパワーになります。私は、その両方をみています。素質と学習、あるいは、天性と努力といってもよいでしょうか。トレーニングはもちろん後者にあたりますが、前者をふまえて活かすことが大切です。
昔の方法がよいというのは、新しい方法の成果に限界が出たときに必ず言われることです。昔の食事や生活が体によいというのと似ています。
しかし、自然、古来というものが、必ずしも本質的なものとは言えるわけがないのです。
本当によいのであれば、なぜ、そのまま継承されていないのかということです。何事も時代に合わせて取捨選択され、改良されていきます。時代が変わり、現状に合わない、元に戻すというなら、やはり、今、リアルなものとして、存続しているのです。
健康ということを絡めて述べることが多くなったので、自然な回復力、治癒力、免疫力などにもひっかかりつつ、使っています。
こうした場合、昔といっても、昭和とか江戸時代などではなく、大昔、太古の人間のプリミティブな力や未開の自然のパワーのようなものを示していることが多いようです。それだけで肯定し、絶対視する人が少なくありません。
「自然」「しぜん」「ナチュラル」ということばは、よく使われます。私も使いますが、その使われ方に抵抗を感じることがよくあります。
「生来」「本来」「古来」「プリミティブ」「本物」などということばも、よく使われるので、私は使うのに逡巡します。
「大体、まあ、それなりに、多分、アバウト」などとつくのが、程度問題です。つまり、グレーゾーンなのです。
それでも参考にできることがあるのは、まさに「大体」「合っているだろう」と考えるからです。
「全く通じない」「絶対違う」ということではないから、使える分には使えるのです。いえ、使える人には使えるし、当てはまる人には当てはまるときもあるのです。
ヴォイトレメニュもノウハウも、人によって、時期によって変わるものです。つまり、そこはどうでもよいものなのです。
私の伝えたいもの、作品、アーティストは、研究所を始める前からほとんど変わっていません。それは基礎であり、研究所の本質的なものです。それは、私たちのものですから、それに代わるあなたのものをみつける、創りあげることです。その手助けをするのが、研究所です。
私は、「研究所は、材料と基準を与えるところであり、それはメニュやノウハウではない」と言ってきました。元は基準だけでしたが、材料があまりに入っていない人が増えたので、鑑賞のメニュを加えました。
ネットにあるのは、メニュ、ノウハウだけです。今や、それが主流で、それでヴォイトレや声がわかったように思われています。私は、そういう人たちにも発信しています。要は、人が育つか、声が育つか、でしょう。