ヴォイストレーナーの選び方[アーカイブ版]

声、発声、聞くこと、ヴォイストレーニングに関心のある人に  バックナンバーは「夢実現・目的達成のための考え方と心身のトレーニング」をご覧ください http://bvt.txt-nifty.com/trainersen/

日本語の遍歴

日本語を総覧してみると、万葉の頃は、歌垣として、情愛の呼びかけでした。歌垣は、言霊という呪術的な力の働きが加わるとはいえ、今のコンパのようなものです。その後、お上の勅選和歌集では、選者が記述して記録していきました。

 紀貫之土佐日記「男もすなる日記というものを…」というカバちゃんスタイル、女装や女体、いや、女性体、女性語で書かれた「かな」文字です。

 話すときのことばと書くときのことばは、ずっと区別されていたのです。和語(「よみ」)と漢語(「こゑ」)と呼ばれていました。

 公家、武士、僧侶や女房(女性)、幼児と、使う人によって、ことばは異なり、ややこしかったのです。しかも、中央と地方とで違います。

このあたりは世界の国々と同じく、村一町―市―県や州―国などという全国統一のプロセスで変わっていきました。

ネットと世間

世界に有数の、日本の、大量の数を誇るブログや掲示板などへの無記名の書き込みは、よくも悪くも昔ながらの「世間」の存在を感じさせます。私のように常に読み手と向きあい、文章を書いてきたものには理解しがたいことでもあります。

 そのエネルギーには、よい面では「読み人知らず」のような習作、俳句や短歌づくりのような、日常にある文化の定着を感じます。一方、悪い面では全国版とはいえ、日本語ですから、世界には届かない、井戸端会議や落書きの安易さです。そこに集うのは、似た思考の人ですから、論議を重ねていくのはどうなのでしょう。直接会っているなら悪友でもよいのですが、匿名で吐露し合う、ときに罵り合うだけでは自分の成長になりません(でも吐き出さないよりはよいので、その後にそこにとどまるか、次の一つ上のレベルへ抜け出せるのかで差がつくのですね)。

 成長したい人は、もっと自分に役立つことに時間と頭を費やすことです。類は友を呼ぶで、自分のエネルギーを累乗でマイナスにしていかないこと、それを自分を高める人との交流に使うことです。

 見たり聞いたりするだけでも疲れるなら避ける。そういう感性がないと、引き込まれてしまうのでしょう。不満こそ身の内にためて、自分の本音を作品や仕事へ昇華させた方がよいと思うのです。プラス思考の人はそういうのは読まないでしょう。

文字への思い入れ

私は欧米のことばにやや近い感覚のものとして、これまで関西弁、広島弁や博多弁などを挙げてきました。音声以外の日本語の研究はたくさんあるので、興味のある人は学んでください。言語で文字によって表せるものは、書物で学べるからです。

 文字の発明、紙の発明、印刷の発明、本の発明、それ以来、研究というのは、ペンで綴られてきました。欧米ではアルファベットのタイプライターの発明で、飛躍的に多くを記録し、伝えることができるようになりました。日本ではワープロの開発、普及を待つのにかなりのタイムギャップが生じました。

 一方で、音声は、20世紀のレコードとラジオの普及からパソコン、スマホが普及して、利用も研究も本格化しつつあります。

 日本人は、文字に対して大きな思い入れをしてきたのです。これは、翻訳を絶対としてきた輸入文化ゆえの宿命でした。しかし、その元、日本人のビジュアルへの鋭い感性のためだと思います。欧米にもフォントはありますが、日本人の絵文字ほど柔軟ではありません。韓国や中国のような伝達の効率を重視した文字の改革はあったにせよ、センスよく守られてきました。現代において、絵文字、記号など、新しい発明が、一般のレベルでどんどん行われ、改革され続けています。カタカナ、丸文字を超えての、新たなる日本語の開発のスピードと量には驚くばかりです。

主語のない日本語

「日本語には、subject(主語)がない」などという批判は、欧米のグラマーに日本語をあてはめているからです。ボクシングのルールで、柔道をjudoにしてしまったのも乱暴なことだと思います。

 伝統を尊重する私も、このところの柔道、相撲、野球といった、かつて花形であった各界の幹部のには、日本の古いものの頑なさをみるとともに、時代の波のなかでの対応に大変なのだと同情もいたします。上からはしばかれて育ったのに、下からはパワハラと訴えられる、板挟み、中間管理職の悲哀です。しかし、そこを乗り越えて改革しなくては未来はないのです。

 そこでみえてくるのは、組織、集団の中で責任をあいまいにしている、個人としての主体性のなさです。まさに日本人らしいのです。

 相手によって自分の呼称さえ複雑に変えなくてはならない日本語は、そういう宿命を背負っています。自分以外であれば、相手が誰であれ、一人でも何千万人でも、youだけですむ言語を見習うことも、ときには必要だと思うのです。

日本語は会話向き

日本語は、対話型のコミュニケーションには、不向きな言語です。すでに関係ができている相手に伝えるには、うまく使えるのですが、初対面、特に1対多では、混乱しやすくなります。人前で話すのが不得意な人が多いでしょう。

 主語を出さず、受け身で婉曲に伝えます。伝えるよりは、相手が察していくようなもので、「ハイテキスト」なコミュニケーションといえます。

 誰でもが知り合いの同郷の徒、つまりrural(田舎)での交流のものです。

今、使われてよく批判されている「…にほう」「…から」「…とか」という、方向でぼかす婉曲表現も、その一つの例です。主体性に欠ける自己責任を問わない社会、匿名、世間、派閥といった、集団を中心とする社会の特徴がよく表わされているのですね。

対話と会話

「日本には会話しかなく対話がない」、と言われてきました。対話とは、第三者を聞き手においた対談を考えるとわかりやすいのでしょう。1対1で話していても、その2人の中でなく、他の人が聞いてわかる、つまり、ドラマの出会いのシーンのように、観客がいても、そこへの説明が確立しているようなもののことです。簡単にいうと素性を知らないもの同士の話のスタイルです。

 私はワークショップでは、1対多でも、そのなかの一人の相手に語りかけるようにしています。そのときに、常にその人だけでなく、その人を通して他の人に伝えようとしています。これは対話です。

 時間的制約があるのと、1回きりのケースなどでは、初対面で何の事情も知らない相手の前で進行しなくてはいけないからです。全員に語りかけても伝わりにくいことを、伝わりやすくするため、もっとも適切と思われる候補を選んで、その人をだしに進めていくのです。

 1対多では成り立たせなくてはいけないことが、1対1でもそうなっているのかというのをみると、それが会話か対話かわかります。親しすぎるなかでは、多くのことが省かれて、会話となります。

日本人と日本語

日本は、古くは中国から、近年は欧米からの影響を大きく受けました。そのために翻訳による知識の導入、それは読み書きが中心となり、日本語という言語を特殊に発達させてきたのです。

 日本語は文字に複雑ですが、音声にはシンプルです。音声での言論である対話、議論、対論などに重きを置かないのです。

 日本の社会は、上意下逹ボトムアップ年功序列、終身雇用を中心とし、リーダー、エリートの育成ができない、この傾向は21世紀でも変わりません。個人としての実力よりも、集団、組織が優先であり、個としての信用、保証は重視されないのです。

日本人の音声力の弱さ

日本人の音声力の弱さと、その原因について、別の面から指摘をしたいと思います。これまで、私が述べてきたのは、日本人、日本の特徴として次のようなことでした。

 島国の村社会での生活。小集落。

 アイヌなどとの混合はあったとはいえ、比較的、移民、流民の少ない固定化された人間社会。

 「壁に耳あり障子に目あり」の、木と紙の狭い家、プライバシーのない「家」社会。

 農耕社会の長老政治。長いものに巻かれろ。

 農業は、天気などに左右されるもので、長年の経験がものをいいます。しかも、稲作などでは集団での作業で和が尊ばれます。若者がリーダーとなる狩猟と違い、実力社会ではありません。

 日本人はアフリカからもっとも遠い地まで逃げてきた、世界の中でも穏やかで争いを好まない、その多くは滅亡したような類の生き残りの民族だったのではないかと思います。

 世界でも稀にみる長期に継続している天皇制です。何事も上からの変革だけで継続性が高く、他の国のような民衆による激しい革命がなかったのです。

自分に合ったやり方

声の弱かったために、丁寧に丁寧に声を扱っていた平幹二郎さんと、強く出し、潰しては強くしていった仲代達也さんの話をときおりします。自分に合ったやり方を見い出すこと、知ること、選ぶこと、そして、つくることです。ヴォイトレも、表現と同じ、個性と同じで、一人ひとり違うのです。どのやり方がよいなどというのを自分不在の、机上の空論に巻き込まれないようにしましょう。

 誰かがよいと言っても、そこに大して根拠がありません。あなたに対してどうなのかとなると、ワンオブゼムに過ぎないこともよくあります。電化製品やレストランの評価でもかなりばらつくでしょう。人によって味覚も違うのです。未熟なトレーナーほど、自分が一番よい方法を知っていると思っています。

 自分×将来への時間×努力×やり方(メニュやトレーナー)という変数を無視して、一つだけを見ても何にもなりません。あなたがレッスンをあまりうまく役立てられていないなら、こういうことをもう一度考えてみてください。

限界の突破法

指導となると「喉が…だから」「歯や歯並びが…だから」「かみ合わせが…」「舌が…」「声帯が…」「口が…」できないと言うように注意をするのがトレーナーです。わかりやすいことです。

 一つのことが原因でできないということは、確かにあります。しかし、多くは、いくつもの原因があります。全く異なる他の方法で解決が図れることもよくあります。

 「医者に行く」のは簡単ですが、医者ならどこがよいのか、トレーナーや、他の専門家がよいこともあります。アドバイスというのは、けっこう雑なものです。

 限界は、壊して超えるためにトレーニングすることです。

 本当に必要があるのかを知ること、時間や内容に成果が見合うのか、他に力をかけた方がよいのではないか、いろいろと考えられます。ハンディキャップがあるとしたら、それを克服して限界を、より厳しく知るなかで対処する方法を編み出せばよいのです。