ヴォイストレーナーの選び方[アーカイブ版]

声、発声、聞くこと、ヴォイストレーニングに関心のある人に  バックナンバーは「夢実現・目的達成のための考え方と心身のトレーニング」をご覧ください http://bvt.txt-nifty.com/trainersen/

土俵を創る

私なりに経験上言えるのは、人生捨てたものでなく、個性や才能は一本道でない、多様なものだということです。スポーツのようにフィールドが決まっていると100メートル走でも、最初からそこそこに速くないと、生涯どう努力しても選手にはなれません。しかし、アートは、同じでないものを創り出すところでの勝負、いえ、勝負というのは同じ土俵ですから、それでもありません。真の創造は、土俵を選びません。土俵を創り出すことです。声もまた、大きな自由と可能性を得ているということです。

表現と基本

アーティストからは、声よりもステージや歌やステージに学ぶことです。そこはプロなのです。プロに対しては、どこのプロ、どこがプロなのかをきちんとみることです。ヴォイストレーナーの行うメニュや方法の方が、ヴォイトレとしては、プロなのでよいはずです。声だけでずっとみてきた人なら、声について、もっとも多くの経験を持っているので、そこは使い分けをすることです。

 アーティストは、他の人の声についても自らの経験や判断でアドバイスをすることはできます。しかし、将来へ時間をみて育てていくトレーナーとはまた違うということを知ったほうがよいでしょう。人からはその専門性に学ぶべきです。その場での発声の矯正をヴォイストレーニングと考える人が多くなったのは困ったことです。

 基本とは、型であるのですが、私は、基本の基本として型以前の自然を学ぶように努めさせています。ただ一声でよいから体の声、これも「大きく響けば体の声で1オクターブ」といえるものです。1音を体から、いつでも完全に出すのには相当な年月がかかるのです。周りの人、といっても誰でもよいのでなく、厳しい人、1000人に1人くらいしか認めない人が認めるレベルでの発声と考えてください。

アーティストに学ぶには

師である先生やトレーナーが表現者であるとき、その表現に惚れて、つくわけです。型を学びつつ、似せていくのか、似せるとよくないのかは、そのアーティストのレベル、あなたの学ぶ目的、レベル、タイプにもよります。

 表現としては、プロのアーティストには学ぶことが多くとも、声に関しては、かなりの無知、独りよがりな理論、考え、方法、メニュなどが多く、それについては、ただの未熟なトレーナーよりも影響力が大きい分、気をつける必要があります。 

 昔から多くの人には、逆効果となるような、そのアーティスト独自の学習法や考え方はありました。しかし、ここのところ、ヴォイトレのなかでは当たり前、常識となりつつあることさえ、アーティストが教えているケースでおかしな使われ方がされて、びっくりさせられることもあります。

 自分で仕事をしている分には、そんなにおかしくないのに、他人に教えるとなると、どうも狂ってしまうようなのです。そのアーティストが天性というか天然の才でやれたので、それゆえに、そうでなかった多くの人には、そのようにはいかないことを知るとよいのですが…。そういう方法は、そのアーティスト独自のものなので、少し離れておくことです。

価値をつくる

下手にトレーナーにつかない人やトレーナーに合わない人の方がアーティストになるのは、トレーナーのレッスンが邪魔しているせいということもいえます。でも、それはトレーナーの使い方も悪いのです。

 一方的に依存する。たとえば、ときに自信にあふれた歌手が、他のトレーナーから私のところのトレーナーにつきます。やることにすべて「ハイ」と従うだけでしたら、一通り終わっても「前の先生と同じことしかやってくれない」と思うかもしれません。自分から何かを出さないとレッスンは、ただのレッスンのままです。

 あなたが声を何とかするのでなく、声からそのまま作品になるところにあなたが現れるというプロセスをとるようにします。

あなたには、あなた自身や周りの人が大切かもしれませんが、現実には、ここでは音声での価値を有するあなた、そのあなたの声、あなたのせりふ、あなたの歌が価値の源泉です。そこをしっかりと区別してみつめていこうと努めています。

邪魔

本来は、上に大きく伸びつつ地中に深く根を張るのが望ましいのですが、ここでもいくつかのタイプがいます。深く深く根ばかり張るようになってしまう人もいます。深くしても上に出ないで浅く広く張る人もいます。上にだけ伸ばす人も、横だけに伸ばす人もいます。一時的にはどれでもかまいません。

 トレーナーはそのプロセスで、全体の大きさや位置づけをみえるようにしていけばよいのです。これは意図的な試行錯誤の時期です。なのに、トレーナーには効率が悪いからとすぐにストップをかけがちです。しかし、この、一見、無駄な冒険に、放任して冒険させるところに、その人の個性や表現の核が現れ出るものなのです。

ギャップ

「10年たったらわかる」ようにするのです。誰もがわかるようになるのではありません。人によって何年かは違います。実際の年月は大した問題ではありません。積み重ねがものになっていっているのか、年数を経ただけなのかです。実質としての10年が一つの単位ということです。

 私は「ハイ」だけでも5年もトレーニングすれば通じるようになると思っています。それだけをしっかりやると、お腹から「ハイ」が出せるようになるのです。多くの人はそれさえやりません。ですから、10年経っても通じる「ハイ」も出せません。呼吸も当初とさして変わらない人も少なくありません。つまり、そんな「ハイ」もいらなければ、声も呼吸もいらなかったのでしょう。絶対に変わる必要もなかったのです。

 足らない、欲しいと強く思わなくては、ギャップは明確にみえてきません。まして埋められません。その強さ、欲の程度が修得のレベルと表現を決めます。

 そのギャップがみえて、自分が劣っているのをわかっている人は、とても優秀です。だから学ぶのです。そこがスタートラインです。

 プロも含めて、その人のごまかしやテクニックを抜いて、下手というのにするのは、そのギャップを露わにするためです。

 トレーニングのメニュや方向を気にしても、さほど意味がありません。レッスンは、曖昧な目的をより具体化していくことに尽きます。反対方向に行っても、振り幅(=器)さえ大きくしておけば逆にも振れるものだから、身になっていくのです。

スタンス

学ぶというスタンスがわかっていないと、学んでいるようでも大して学べないし先がありません。スタンスは、声を学ぶことよりも大切なことです。声を学んでいるつもりでも、学ぶのは声ではないのです。スタンスが学べたら声もものになる可能性が高まります。身につくところのベースができることがスタンスというものです。

 自分への評価はトレーナーに任せればよいのです。一人でなく、何人ものトレーナーが認めているならば、それは力となり身になっているのです。

やさしく甘いだけのトレーナーではだめです。厳しいトレーナーがいなくなってきたことが問題です。あなたに対してでなく、声や表現に対して厳しいということです。

 トレーナーの基準(ここでは、トレーナーが自分で身につけたもの)だけでは、ダメです。世の中においての価値、それも創造的な仕事への評価においてみなくてはなりません。

 自分で自分をいくらよいと思っても仕方ありません。トレーナーをもっとも厳しい客として使うことです。できたら、複数のトレーナーにみてもらうとよいでしょう。

トレーナーの力を判断しようとしていては、より学べない状況から抜けられないようになってしまいます。それは、最悪の接し方です。自分の実力を自分で固めて、最低レベルに制限してしまうだけだからです。

 

師と創造

私にとっての師は、わからないことをわからないままでなく、そのうちに認められるようになりそうな何かを感じられるヒントを下さるところにあります。その頭の中、奥行きは読めないでよいのです。読めるくらいなら必要ありません。むしろ、自分の実力や個性を否定してくるほどのものがよいのです。そこで認められたら卒業ですから簡単ではありません。褒められたら、それが本心だとするなら、そこで終わる。また次の師を捜さなくてはならなくなるでしょう。

 師が認めたら世界中でやれるくらいに、シンプルな基準において高度に身についていくレベルを求めていくことです。

 わかりやすく言うと、こちらがわからないくらいに深読みしてくれる相手でなくては困ります。誰でも同じように学べるというのはどうでもよいのです。自分にとってどうなのか、が唯一の問題です。

直観が働いたり、イマジネーションが感化されるような相手です。わからないから想像する、想像できないから創造する、しかしようもない状況に追い込まれるというのが理想です。

 こちらができないことができる人、というならアーティストや職人を捜せばよいわけです。師や先生というのは、それと違います。先生の通りに歌ったり、せりふを言えるようになったところで、ものまねにすぎないからです。

 こちらが同じことを生涯やってもできないどころか、わからないようであって欲しい。できないのに世の中では充分に通用するようになっている、それくらいでよいのです。いえ、芸術はそんなものでしょう。師と同じものはいらない、二番煎じになる、同じにできないから、自ら創造する必要にせまられるのです。

地ならしをする

養老氏の「バカの壁」に触れました。壁の内側にいると、外側は、その存在さえわからないのです。

 声は、レッスンの中でもトレーニングの中でも、常に、ではありませんが、あるとき次元が変わります。パラダイムが組み変わるのです。レッスンはそのためにあり、トレーナーもそのためにいると私は思うのです。

 ただ、「そういう瞬間、そのうちのいくつかは偶然の産物で、その奇跡を待て」というのでは、モチベーションが保てない人もいるでしょう。そこで、その場とその時間をトレーナーのもとで、共有して底上げしていきます。少しずつ、感覚や体の条件を鍛練しては丁寧に整えて、その一瞬を起こせるように、気づけるように、整地、地ならしをしているわけです。トレーナーの感覚の共有は大きなヒントです。

 鍛練なくして整えたところで、その瞬間というのは望めません。精度として10分の1くらいに整えていても、1000分の1レベルで整わなくてはまだまだ、といったところです。

 鍛練といっても鍛えようなどと無茶をすると、バランスが壊れて乱れます。今までより悪く、10分の1も整わなくなります。それが自滅なのか、100分の1へ行くためのプロセスなのか、それを見分けることが肝心です。

そこにとどまって厳しく判断します。それは決して慣れあいのレッスンでは生じません。器を大きくしていくのに、自らの外を固めてしまっては内なる限界は破れないのです。

レッスンを通して、何を得るのでしょうか。それは新しい声、新しい感覚、新しい自分、つまり、大きく変わった自分に出会うのです。それを「今すぐに」というから、今の自分を変えていきたいというのも、変えるスケールが本当に小さくなってしまったのです。ちょっとした気分の差で大きく結果が違ってくるくらいに小さくなったから、心身の状態のよしあしだけで大きく左右されてしまうのです。トレーナーが励まし、勇気づけるだけで、すぐによくなるのです。

 1000も1万かも見えないほどに相当な力がないと通用しない世界に、100か200で、「すごく効果があった」と思っても、そこで頭打ちです。その効果は第一歩にすぎません。2,3年先からの本当の実力をつけることに対して何の準備になっていないのでは、そこ止まりです。

 人前で通用するもので、始めて1日や1ヶ月でできるもの、出る効果などありますか。

 スケールのとり方において、全てが異なってくるのです。どんなヴォイトレを行っても、その先にいけない限界を、壁を、本人が、トレーナーにつくと、共に強固につくっているというのが、一般的なヴォイトレにありがちと思うのです。いつまでもやりたいことがわからないという人も多いのです。それは、まだ、やれることがないことの裏返しにすぎません。とことんやれば、やれることなどほとんどないことにあたります。そこからが、本当のスタートなのです。