ヴォイストレーナーの選び方[アーカイブ版]

声、発声、聞くこと、ヴォイストレーニングに関心のある人に  バックナンバーは「夢実現・目的達成のための考え方と心身のトレーニング」をご覧ください http://bvt.txt-nifty.com/trainersen/

原点に戻る☆

歌手よりもものまね歌手の方が客を呼べて食べられる―これは歌手に歌の力、声の力が落ちた、ものまね芸人の声の力と想像力が上がったこともありますが、まさにプロの歌そのものの力が落ちたと認めるべきことなのです。

 初回に、体から声の出ている人をみることが少なくなりました。以前は、荒っぽいのを丁寧にでしたが、今は、逆を求めなくてはならないくらいです。トレーニングが、その上にでなく、一般レベル、人間として必要な声の獲得に下がってきています。一方で、相変わらず歌のヴォイトレだけ、何オクターブ出すか、どこまで高い音が出るか、点数がどこまで上がるかを目指しているのです。それを求める人と満たそうとするトレーナーの間だけで成り立つというのに、です。個性とか、その人の可能性のある声とは別のゲームになっているかのようです。

 もはや、トレーナーはヴォーカルアドバイザーやカラオケアドバイザーでなく、ヴォーカロイドアドバイザーになっているのかもしれません。それを必要とされる現実もあるので、そこはそれでよいと思っています。ともかく、研究所でも、そういうニーズにも対応しています。基礎があれば応用できる、ということで、あらゆる問題にトレーナーも取り組んでいます。

 芸術は、医術であり、宗教であったわけです。これからも、この日本で、多くの人により深く役立つ研究とレッスンの場を提供し続けたいと思っています。よろしくおつきあいください。

ギャップの拡大

声や歌は習うものではありません。日常に触れているものから身につけていく母語やダンス(踊り、舞い)のようなものでありたいのです。幼いときから声や歌に親しんでいたら、あるレベルまで行くので、トレーニングはさらに、その上を目指すものとしてあったはずです。

 ところが今や、社会人になって、どこかのスクールで挨拶や敬語を学ぶようなものと同じになりつつあります。30年前から、私は、日本人は演劇を学び役者のレベルになって、他の国(当時は欧米と比べていましたが)の一般の人並みになると述べていました。今も、そのギャップは広がっています。育ちのなかで声を使わなくなり、仕事の日常生活でも、こんなに静かになり、一方で、音への完成度は鈍ってきている。頭でっかちになって、視覚、眼でっかちになっているからです。

現状適応のレッスン☆

すべては自分に活かすためのトレーニング、そして、自分に活かしていくプロセスです。自らそれを否定する、そういう人が、いつ知れず出てきたときがありました。

私のところは、かなり早い時期から複数で教えていました。今ほど役割分担をしていなかったために、他にセカンドオピニオンを求める人も出ていたのです。他のところのトレーナーなどに注意され、元に戻すような人も出てから、私は、複合的な戦略、ここでも、最初からカラオケ上達の目的もあり、ということに切り替えたわけです。

 それで、私のブレスヴォイストレーニング法と研究所のいろんなレッスンも分けているのです。どちらにしても、一人のトレーナーや一つの方法が万能ではないのです。確かに一人ひとり違うので合うも合わないもあります(付言すると、セカンドオピニオンで第三者の意見が必要、というのは、メインのトレーナーを否定するのでなく、フォローしてよりよい関係をつくるためです)。

 もちろん、日本の歌や歌手の変遷がその背景にあります。声域優位の考え方は、ここでも入れざるを得ません。歌い手なら、これまでの声域のキープは、ほぼ絶対条件となります。カラオケはともかく、音大受験生、合唱団、ハモネプ、ミュージカルオーディションなどに対し、声の深みやオリジナルのフレーズなどを追求するには、あまりに時間がないのが現状です。プロなどでステージを行っている人には、リスクをまず最小限にしなくてはなりません。しっかりとヴォイトレに専念する時間がとれないのです。

 声とその周辺で、癒し、キュアとケア、マッサージのような役割を求めて来る人も増えました。ヴォイトレも、そういうケアとなり、トレーナーも調整、回復の役割となってきたのです。

 一言で言うなら、マッサージをどんなに受けても、それでプロのアスリートになれません。そんなこともわからない時代になってきたのです。でも、自分が気持ちよくプレーできたら、それでよい、そういう考えもあってよいと思っているのです。

鈍さとセンス

急いで体や息の力を使って大きく声にしようとしたら、喉に負担がかかります。声を潰すリスクも出ます。一時、こういう方法が、指導者や若い人に否定されたのは、そのリスクのせいですが、それは自主トレでの無理な追い込みが、ほとんどの原因です。休みを入れない、長時間行う、疲れているのを回復させない、疲れるのを効果と思う、など、独りよがりの鈍さからくるものです。

 ですから、表現から学んでいくこと、一流の作品に触れ、音楽的なセンスを磨いていくことが大切なのです。

きちんと出している声は、時分にも他の人にも心地よいという出口をみていることです。

レーニングはそのことを踏まえて行うものです。トレーニングのためのトレーニングではないのです。理論が間違っているから、それを証明するために声を悪くしてやろうみたいな無駄をするのは愚かなことです。

 私は、一流の中で見本にしたい人と、一流でも見本にとるべきでない人についても言及しています(拙書「読むだけ…」)。学ぶ人の資質によって個別というほどに異なるので、レッスンの他にカウンセリングもしているわけです。

配分か積み増しか

声について、自分の体から考えること(この体には感覚も含みます)そして、人間の体から考えることです。世の中のすべてのものは、声についての見本、参考になります。

 器を論じたのは、私の最初の本「基本講座」からです。そこには、器が10なら声域に5、声量に5使っていたのを、レッスンで声域8、音量2にしてしまうようなことを述べてあります。

 しっかりした声が1オクターブも出ないのに、高音を出せるようにしたら、声量が高音だけでなく中低音も減じるのです。それは、バランスを正方形から上下へ長方形にしたようなものです。器は大きくなっていない、まして、カラオケレッスンでは、三角形にして器を小さくしていくみたいなものでしょう。それでトレーナーもうまく教えたと思い、歌い手もそれを望んでいた、のですから、それはそれでよいこととしておきます。ここでも、それを便宜的に実践してもいるからです。

 高音はともかく、中低音のときに今まで以上に声量が使えなくなり、ことばやパワーが減じている、ですから、できたというのでなく、そういう使い方を学んだとして把握しなくてはいけないのです。なのに、トレーナーはその声量では高いところが出せないから抑えるようにさせます。それは、声域の拡張のために大切なポイントです。しかし、そのこととその声量(共鳴を含む)でその音が出ないのとは違います。本来、優先すべきは声質です。

 全体を鍛えて、仮に16の器になれたら、声域8、声量8でバランスがとれるのに、その必要性に気づかない。それどころか、さらに声域9、声量1にしていくのが、ほとんどのレッスンということです。

 それなら、声域2、声量8にしてみると、よほどはっきりします。半オクターブもなければ、次には自ずと声域に向かうので、いつか16になる。器が大きくなる。これが、かつてプロが育ったプロセスです。そして、当初の私のアプローチでした。でも、表面しかみない人、急いでいる人は、声域が狭くなると、下手になったとか出し方を間違っていると思うのです。

 先にパワーを減じてバランスをとって、きれいな形を創りあげると、後からパワーやインパクトをつけるのは難しいのです。だから日本人の歌い手は表現に踏み込めない、声ではみ出せないのです。

誰がふさわしいか☆

ここでは、自分だけが正しく、できていて、他の人の教え方は間違っていると思い、研究を怠たるトレーナーには、生徒がつかなくなります。これは、演奏面で評価されている人(特にプリマドンナタイプ)に多かったのですが、教える力が伸びません。自分が教えられたことと自分がやってきたことを絶対とするあまり、今の時代の多彩なニーズに対応できないのです。(ここが続いているのは、世の中のニーズに対応してきたからにすぎません。必ずしもそれがよいとも思いません)

 ここのレッスンに来る人の多くはオペラ歌手になりたいのではありません。オペラの歌手の基礎でなく、そのまた基礎にあるもの(体、呼吸、声)です。オペラ歌手以外でも、音大や先生の違いで悩んでいる人は、是非いらしてください。お互いのノウハウを共有していく場で一緒に研究しましょう。

 日本にも少数の優秀な人はいますが、欧米をみると、本当に演奏家もトレーナーも大した人が、相当数いるものです。かといって、彼らが日本人にとってもよいレッスンができるのかというと別問題です。それがよければ、そういうトレーナーと私はここで行っているからです。

 外国人のトレーナーに教えられても、日本人が楽器のプレイヤーのようには、第一線に出られない。はっきり言うと育っていないのです。それは、なぜなのかが問題です。なかなか、そうして教わったことが体現できた人は少ないものです。

トレーナーの成長

日本においても、声のベース、体-息=声-共鳴までの器づくりにおいて、それなりにできているのは、邦楽(詩吟、声明などを含む)と声楽家です。演奏や歌については、それぞれの価値観、時代と場と客の好みもありますから除外します。

 一括りにしても、一人ひとり、かなり異なりますが、声でみます。次に、トレーニングをするとして、他の人と上達のプロセスを共有できるかということでみます。

 邦楽は分野別、流派別があって、長唄くらいでみないと、なかなか難しいでしょう。研究所では、分野を超えて基礎を教える必要がありますから、なおさらです。

 声楽家でも、演奏ではなくトレーナーとして、声の基礎を声楽志願者以外の人と共有できるかというと、普通は難しいです。研究所のトレーナーでもしっかりと対応できるまでに3年くらいはかかっています。

 早く力をつけたければ、ハイレベルで難しい相手と経験することです。プロや一流の人がくる一方で、医者から紹介された、一般の人よりもハンディのある人もくる研究所では、その点、恵まれています。早く苦労し失敗する経験を積めるかです。他のトレーナーにもフォローされつつ、ゼロからやり直すくらいでこそ、それまでの経験も応用されていきます。そして相手に応じて用いることができるようになるのです。そこに以前に学んだことも加わって、その人の中でそれなりに体系化していくからです。

まとめ☆☆

人は、声が出るようになってから、しゃべりました。感情で叫んだり、怒ったり、泣いたりします。それが歌の成り立ちというのなら、声量はいりません。しかし、体からの息を伴わなくては生きた表現にはなりません。声量は、そこで、より働きかける大きな要素です。そのメリハリで表現力は定まります。

 日本人には邦楽を聞くくらいの1オクターブくらいがしぜんな器ともいえます。それ以上使いたければ、アスリートのように鍛え、器を大きくすることです。カラオケで他の人のキィに合わせているようなのは、ただのゲームなのです。

 例えば、平成にデビューした歌手の歌の変遷をみても、パワーから癒しになってきています(紅白出場あたりのデビュー時と5年後を比べ、最近20年くらいの歌い手でみると、ほぼ、それが当てはまるように思うからです)。最初から声力のない人は別です。男性も女性と同じく、よく当てはまるようになりました。

 今や、基本を求めると、売れませんとは言いませんが、日本で感度のよいプロ歌手は、結果として売れる作品、そういうステージによっていきます。その果てが、今なのです。一流の歌い手の声と歌唱は、派手でもおもしろくもなく、まじめにすごいものなのです。

 芸人の感性が、広い世界にでなく、身近な人にあわせると、結果として、その人はよくとも、その分野は滅ぶ道を辿ります。母性に加え父性もあってこそ存続するのです。

歌での甘え

プロしかできないこと、それが声に基づくもの以外になってしまったのです。アイドルやコミックバンドなどのようにです。もちろん、亜流はいつの世にもあってもよいでしょうが、それは、本流があってこそ存在できたのです。

 作詞作曲、演奏、ステージパフォーマンス(ダンスなど)はハイレベルになりました。目の肥えた日本人の客にわかりやすいからです。

 声が大きいというのが、プロになれる条件ではありません。それは、器の一要素です。条件はむしろ声質、音色、歌やせりふならフレーズ、そこでのオリジナリティです。

 歌というのは「自分の声」「ことば」で、オリジナルのように思われてしまいます。それで、通じてきたつけが出てきたのです。プロの楽器奏者レベルの確かな音色(タッチ)とフレーズ(自分の音、音の流れ)のある音楽になっていないなら、その歌が国や時代を超えられるわけはありません。ブロードウエイやグラミー賞と別に、欧米の基準を絶対にしたくないので、それをみないとしても、中国、韓国、インド、アフリカなどにも敵わないのが現実です。

みえない深さ☆

歌の前に声、「アー」という一声、そこで差がつくかをみてください。これをお笑い芸人ほどにも今の歌手はもっていないのです。また、問われてもいないのです。それくらいでは、自ら歌う楽しさを知ったカラオケ好きの客が、歌手のファンとして増えるわけはありません。

 誰でも歌える、ならお金を払って観に行かないでしょう。プロしかできないからこそ、歌もお笑いも人が観に行くのです。

プロになるのに必要なのは、この、みえない深さです。それが、私の述べてきた器です。

 ただし、歌に世界観があれば、歌のくせもオリジナリティとなります。それを欠点として取り除くのかは、慎重な判断を求められます。私は、こういう場合、歌唱とヴォイトレの距離を明示します。

声量と共鳴

声量は、カラオケでは、エコー、ポップスで導入されたマイクがもっとも助けてくれるものです。リヴァーブ効果に、フレーズさえ、ビブラート効果でつなげます。声そのものを聞きやすい音質にして伸ばしてつなげるので、レガートやロングトーンをクリアしてしまうのです。どんな下手な歌も、小さな声量でもおかしくないようにバランスをとってつなげ整えてくれます。丁寧に音さえあてていくとつながる、それが歌も声もダメな人が多かった日本人の開発したカラオケという魔法の道具なのです。歌やステージをヴィジュアルに絞った装置ビジネスにしてしまったのも日本人です。

 マイクを使わなければ声があるかないかはよくわかります。大きな声は、武器です。無限とはいいませんが、大きく出せる器をもっていながら7割も使わず、底をみせないのがプロたるゆえんでしょう。つまりは、声量と共鳴は奥行きがあり、深いのです。たからこそパワーとなりうるのです。日本人が世界レベルにならないのは、まずは、このパワー、インパクトの不足です。

正すか深めるか

歌の3要素は、メロディ、リズム、歌詞です。それぞれ外れたらわかります。つまり、それは間違いとして正しやすく、レッスンがしやすく、トレーナーやプレイヤー(伴奏家)の仕事として成り立ちやすい、のです。かつて、作曲家や伴奏家、つまり、ピアノやギターの弾ける人が歌の先生だったのです。それは、トレーニングというより、歌を覚えることと歌唱リハーサルに近かったのです。

 音の高さは唯一、声において確かです。ピッチ(音高)はすぐに測れます。耳でもピアノでも正しいか間違いかがわかります。ただ、これも正しいだけでなく、心地よく伝わる流れで、深いというレベルの基準があるのです。高い声に届いていないとなると、届かせるのが目的となります。困ったことに、届いている声でよしとなります。

 それに対し、声量や声質(音色)はわかりにくいです。つまり、分けたときに無視されやすいものです。

 当時でさえ、そういうヴォイトレのなかで、声量を優先していたのは、皮肉なことに、今のここのパートナーをはじめとする声楽家です。声が届かなければ、働きかけもよし悪しもないからです。

あてただけの歌声を認められなかったのは、私の声=歌へのこだわりでした。