2024-07-01から1ヶ月間の記事一覧
ヴォーカリストを評価するためには、そのヴォーカル以上の存在でなければわからないというような考え方があります。もちろん、私が夏目漱石とか森鴎外の小説への批判本を出しても構わないのと同じで、そのこと自体は自由です。しかし、それ以上の作品を描け…
逆にいうと、歌手を兼ねて、ヴォイストレーナーをやっていたら、生徒がお客さんという形が成り立ちます。大学の先生が、昔、自分の著書を教科書として使うから、出版社が出版を引き受けたみたいな、明らかにアンフェアなものといえます。
トレーナーをするということと文章を書くということは、案外と似ています。言葉によって相手に注意するからです。それに対して、アーティスト、ミュージシャンというのは、別の仕事のように理解しています。どちらが偉いということでなく、専門が明らかに違…
誰もが関わる声というものに対して、どのように研究するか、その過程は、厳しいものです。それに対して、評価する人は、かなり楽なのではないでしょうか。褒めまくればよいからです。
ヴォイストレーニングの本は、ほとんど入門書のようなものだと思うのですが、ヴォイストレーニング、あるいは歌や発声も、やり始めてからでないと意味がないと思っています。武道やスポーツと同じだと思います。
ジャズやクラシックには、スタンダード、定番というものがあり、大体、入門というところから入ることになっています。しかし、入門者向けとしたにもかかわらず、実際には、いつも同じような人たちが、つまり、ベテラン勢が読んでいるものなのです。
本当のことを、真実について、伝えるタイミングというのは、どの世界にも、人間の本能的な世界ほどあるということを、大人ならわかっているはずなのです。
すぐに見せてはいけないものを、見てはいけないものというのは、どの世界にもあります。タイミングというのがあるのです。 日本の教育で、いきなり日本の兵隊さんはひどいことをしたと教えるようなことをするなということです。
私はヴォイストレーナーについて気にかけることは、ありません。引き受けている人についてだけです。研究所内でトレーナーを選んでいますが、すべての責任とともに、その配慮をしています。
普通の人が普通の歌としてのヴォーカリストを選んでいるとしたら、それに関わるトレーナーもまた普通であるということです。それはそれでよいと思うのです。
トレーナーとも似ていて、例えば、アーティストとの交流等を売り物にしているような場合は、すでに、トレーナーという本分を放棄しているといえなくはないのです。 もちろん、まわりがプロとして売ろうとしている分には仕方がないところもあります。
そうでなければ、映画評論家や料理評論家という職は成り立たなくなります。 批評とか評論というのと、それを実践するというのは全く別だということがわからない人もいるわけです。 批評するのもそのように見られている場合があります。キャラばかりみて、作…
もっとひどい例とは、批評に対して、ミュージシャンがミュージシャンでしかわからないような優越的な反応を返すことがあります。批評家が、話もできず歌も歌えなかったり楽器ができなかったといって、聞けないとか書けない、つまり、批評できない、理解でき…
ミュージシャンが、他の音楽を聞かない、本を読まない、文章を書かない、ということは別におかしなことではないと思います。そうでない、音楽で表現するからミュージシャンだとも思います。少なくとも音楽に費やす時間分、他の時間が削られるのですから、お…
日本のジャズミュージシャンは、ジャズ以外に聞いて学ぶ対象を広げていることが少ない、海外のミュージシャンに比べたらとても少ない、その通りに思います。
ですから、ある頃からの歌謡曲やニューミュージック、JPOP周辺のようなものに対しては、すべて、肯定的であり、むしろ、レコード会社や楽譜を売る出版社の、レビューの仕事なのです。
ジャズ喫茶のように、レコードの買えなかった人、売られていなかったレコードをいち早く入手し、それを聞かせるということで成立していたようなことです。ラジオもそれに似ていたのかもしれませんし、有線もそういう役割を果たしていたといえます。しかし、…
英語で全世界に発信するというなら別ですが、当時、批評が成り立ったのは、向こうのものをプロデュースする、あるいは知らしめて形にするというところに、それが位置づけられていたからです。
評価があるのは、クラシックとジャズであり、少なくとも日本のポップスにはないと思われます。洋楽に対してのいろんなものを集めて、私はこれまでも述べてきたのですが。この時代においては、同じ土俵に立っているミュージシャンがいない国で、遠くの文化を…
アーティストが何かを述べたとしても、それはファンに向けられ、ファンが読むのです。その関係性を取り去って考えるわけにはいかないわけです。 つまり、ファンは、MCと同じく、何を話されたところでも受け止めてくれるわけです。なら、もはや批評でも評論で…
批判が成り立ちにくいのは、具体例を挙げて、それに対して言葉として展開することがとても難しいからです。論じるとなると、誰かの書いた文章のどこかについて展開しがちです。 どうならなければいけないというところまで、それだけ共有されているような認識…
そのなかで好き嫌いもあれば認めたいとか認めたくないとかもあります。でもファンの人たちとは違い、距離を置いて、厳しく客観的に眺めるようにしています。 つまり、すべてはトレーニングにおいての材料に過ぎないのかもしれません。もちろん、そんなことさ…
音楽で歌の分野から評論家がいなくなって、久しいと思います。 私の立場としては、トレーナーなので、引き受けた人に対する意見や批判は、それが仕事だと思っていますが、そうでない人に対しては、あくまで引き受けた人たちに対する参考としてのコメントに過…
世界的に、あるいは歴史的に、偉大であるアーティストを見た人が、いろんなことをいってやりとりするのに、私たちの批評を受け入れないとしたら、それはかなりおかしなことではないかと思います。
もちろんファンはそれで満足できればよいのですが、そうでない人、批評家、評論家の存在が必要ではないでしょうか。 アーティストサイドでは、同業者に対する批判ができないような状況です。同じ時代や同じ年代に対して、すべて仲間であり、批判がタブーにな…
感想などは、特に音楽で歌に関しては、楽しかった以外には出てこないようです。よかった、元気づけられた、勇気づけられた、とか。そこでは作品そのものへの批判が欠けてしまう、それはどうもよくないことです。
それは、これまでのアーティストが一方的にステージから投げかけられた作品に対して、観客が受け取るということから、インタラクティブな関係に変わったという点ではよいのかもしれません。 としても、自分が楽しめたから観客も楽しかったはずとはいえないの…
メンタル的な意味で、緊張をほぐすために、「楽しんでいこうぜ」というのは構わないと思います。しかし、自分が楽しくなければ観客が楽しくならないとか、自分が楽しんでいるところを観客が楽しむとなると、それていきかねません。
ミュージシャンやアーティスト、アスリートまで、「本番が楽しかったです」というような感想が当たり前になってきました。自分への挑戦、記録、パフォーマンスが目的であって、それが価値でありビジネスであるというのなら、それを受け入れる観客が「楽しか…
体幹のインナーマッスルが衰えると、身体が支えられなくなり、負担が腰にかかるのです。筋肉の細胞への血流が滞ると、痛み物質が生成されます。腹圧を高めることでインナーマッスルが鍛えられ、体幹が安定します。スクワットなどで日ごろから大きな筋肉を鍛…