ヴォイストレーナーの選び方[アーカイブ版]

声、発声、聞くこと、ヴォイストレーニングに関心のある人に  バックナンバーは「夢実現・目的達成のための考え方と心身のトレーニング」をご覧ください http://bvt.txt-nifty.com/trainersen/

刷りかえで教える

たとえば、「歌える体づくり」といっていながら、「声の向き」の指導において、「できましたね」とほめるときには、いつのまにか声の高さが変わっています。「向き」ということをポイントにするのは、悪いことではありません。

高さが変わってできるようになったのなら(それが目的なら)よいのです。そうでなく、最初からできる高さに問題をすり替えて、「できた」というのは、まやかしにすぎません。

 自信をつけ、トレーナーの信頼感をもたせるためにしているのなら、一種のトリックです。右に求めていたことを左にしてOKと思わせているのです。多くのトレーナーは気づかずにやっているのですから罪はありません。トレーナー自身が気づいていないのが、今の日本のヴォイトレのレベルです。こういう例はとてもたくさんあります。意図せずやっているのです。

効率とステップ

効率というのは、一つの指標にすぎません。情報が優先される世の中において、即興的効果、早ければ1回ごとと、1、2ヶ月で何かを効果としてみせることを強いられるトレーナーは、そういう方法やメニュをとらざるをえないからです。

 これをわかって行っているならまだよいのですが、トレーナーによっては、いらっしゃる人が充実したり、満足するのがもっとも正しいと信じているのです。こうなるとビジネスか癒しです。ヒーリングなどにもその傾向が強くみられます。

 「早く2、3割よくなるプロセス」と、「時間がかかっても2、3倍よくなるプロセス」とは一致しません。早く2、3割よくしていこうということが、その先の可能性を低くしてしまうのです。

 初心者用レッスンというのが第一歩として、第一ステップとなればよいのですが、入口に入れない第一歩であることが多いからです。

 より高いレベルにいたるには、より深く掘り下げなくてはいけません。建築物のように、高さを考えるほど、土台を深く堀ることを優先することと思っています。自己流を停止させ、基礎を固めるのが初心者用レッスンと思うのです。それが本人の自己流と異なっても、トレーナーの自己流となるのはよくないでしょう。

強さを求める

誰もが歩いたり走ったりしていたらオリンピックに出られるとか、記録をつくれるわけではありません。高いレベルを求め、自分自身の不足を補い、能力を早く手にいれたいとなると、無理が生じます。その無理を承知の上でセッティングするのがトレーニングです。私は「トレーニングは必要悪」と言っています。

 

 今の器を大きくするのは、今の形を壊すともいえますが、違うものをゼロからつくるのではありません。ベースに今のあなたの声があります。その最大の器をみます。そのまま全方向へ伸ばすのではなく、ど真ん中の声をみて、そこをつかみ直して、可能性をマックスにしていくのです。

 野球で言うと、ストライクゾーンを拡げるのではなく、もっとも力を発揮できるコースを絞り込んで、自分自身のストライクゾーンをセットしていくようなものです。それが資質や応用性に恵まれていて、ルール上のストライクゾーンを包括するくらい大きくとれる人もいれば、その半分くらいしかとれない人もいるかもしれません。

 しかし、勝負すべきは、広さではなく強さなのです。

 

 声の広さというと声域になるのですが、ヴォイトレでは、高音を目的にトレーニングをする人ばかりが目立ちます。そのためのトレーニングとやらは、長い目でみると、方向違いになりかねません。トレーナーの指示とメニュで、一時的な上達に長けてしまうことも少なくないのです。

高い声が出るようになっただけ、声質(音色)やコントロールは、初心者のままという結果です。何年たっても、そうであれば、プロセス、そしてその目標のセッティングが違っていたのです。

よい声とタフな声

私が皆さんと接して使っている声は、もっとも私らしい理想の声やよい声というよりは、仕事を完遂できる声です。崩れずに8時間以上の持続に耐えられる声です。よい声かどうかは別にして、タフな声、強い声です。仕事に使うのですから仕事の声です。

レッスンのなかでは、変えることもあります。使える声といっても、応用されるのですから、ケースバイケースで多様なものです。

 

 応用というのは、ある意味では調整でなしていることです。自分のもつ器のなかで上下左右と動かしていくことは、器の拡大とは違うのです。これを上下左右、器のなかでも大きな振り幅で動かしていけると、結果としてしぜんと器を大きくしていくことになります。リスクをおさえ、時間をかけてやっていくことで、トレーニングとしてみると正攻法なのです。

 大人の声になっていくのは、人生の歩みとともにある声です。トレーニングではない、しぜんな日常の声の進歩が、本来は理想です。

応用力のある声

基礎としての声をどのようにするかは大変な問題なのです。多くのケースでは、「シンプルに認める」か、「タッチしないでスルーする」というようにされています。

 私は、これを応用力のある声と捉えています。

体の中心からの声で、共鳴した声でなく、共鳴を自在にできる声、

芯のある声、小さくても聞こえる声、通る声、深くてパワーのある声、

口を動かさなくても発音が明瞭な声、

聞いて心地よい声、その人らしい声、説得力のある声、しぜんな声、

器の大きい声、限界のみえない声、

と捉えています。

くせをとる

 本人の声と本人の理想とする声(憧れの声、モデルとしての声)とのギャップは、問題です。

声の判断基準は、いろんな人の声を聞いて、できてくるものです。多くの場合は、自分の声から目指すべき理想とイメージでの理想にギャップがあります。

 すでにこれを無理に(くせをつけて)のりこえると、自分本来の発声でなくなっているのです。歌うときにはもちろん、日常の声にもくせはついているものです。

 自分の発声と思っているものも、本人のもつ生来の声に、育ちや生活(環境や習慣)が入って、姿勢などと同じでくせがついているものです。ですから「くせを取り除く」というのが、レッスンの第一の目的となりやすいのです。その結果、そこでは悪い意味で合唱団の発声のようになることが多いのです。体や呼吸の使い方も、声量を抑えて丁寧にということで不問になるのです。

 それが本人らしい声なのか、理想の声なのか、他人の求める声なのか、いろんな見方があると思います。

 私は何であっても、できないよりはできた方がよいという判断もしています。表現の可能性、応用性を大きくしていくのが、トレーニングの目的でもあるからです。合唱のできる人は、できない人よりもよいのです。ただし、そこから踏み出せたら、です。

基礎の声

声が基礎、でも基礎の声とは何か、ということが最大の問題です。人間としてもって生まれたもの、例えば顔などと同じで、時代や違いによってよしあしはあっても、正しいとか間違いとかはありません。今、流行の歌や声というならあるのでしょうが…。

 「どの人の声にも間違いはない」ということです。いろんな問題を抱えて、いらっしゃるのですが、本当に問題になる人は1パーセントくらいです。声が出ないとか歌がへた、音痴が直らないといっても、その1パーセントの人以外は、大して深刻な問題でないのです。

 その1パーセントの人の問題は、声の器官、耳(聴覚)、脳の問題があげられます。医療の分野やメンタル的なアプローチを要します。

 

 多くの人は、「本来の問題をきちんと捉えられていない」「足らないものを知って補充していない」だけです。それをチェックしていくのがトレーナーの第一の仕事でしょう。

 そこでも大半は、声というよりは、話や歌での機能での問題、声量やことばの明瞭さ、滑舌(発音)や音感、リズム感の解決をはかります。不慣れなら慣れていくことで、ほぼ解決します。緊張などメンタル面も大きく関わっています。

 舌、表情筋、呼吸筋ほか、柔軟性や運動不足などの日常生活のもたらすものが関係します。そこからみると、発声の効率などは、基礎であるのに高度な問題です。

文化とプログラミング

私は、どんなメニュもやり方も、ないよりはあったほうがよいと考えています。選ぶ機会が多様にあるのが豊かなことであり可能性も広がるからです。そのなかから選ぶだけではありません。自ら創り出すための材料となるからです。一人でゼロから創ることを考えてみたら、どれだけ助かることでしょう。

 人類は先人の経験を生かし、文明や文化をつくり出してきました。継承の上に創ったから偉大なこともなしえたのです。

文明は共通に基準化され、伝達され模倣されて発展します。一方、文化は、一般人、一個人、一地域、一時代のオリジナリティを元とします。この二律相反の問題には悩まされるものです。

あるところまでのプログラミングは、文化、芸術の理解、指導、習得に有効です。私が方法やメニュを一個人でなく、組織として扱い、それを通じてまとめ上げ、公開するのもそのためです。

第一段階として、材料を一覧化しています。第二段階として、ノウハウやメニュを欲しがる人が多いのですが、必要なのは、基準とそれを満たす材料です。

 表現は基礎を必要として、基礎によって可能性を大きくします。しかし、基礎そのものの中や、その延長上に表現が生じないことも多いのです。小説をいくら読んでもよい小説が書けるのではありません。それをいうなら、いくら書いてもよいのが書けるとは限らないともいえます。

 声は基礎、表現は歌やせりふとなります。声を出しても、そのまま表現にはなりません。それは、よい竹を叩けば、よい音が出るというレベルです。尺八の音にするには、楽器として加工し、演奏者が技術を高めなければなりません。そのレベルでの表現を私は目標にしていますが、難しいものです。

教える関係での偏り

トレーナーの仕事が教えることとするなら、何らかにおいて教えられる人よりすぐれており、そのスキルを伝えることで仕事としているからです。

 すると、歌ってきた人とこれから歌う人の間では、歌ってきたことで知っていることを伝えるのが教えることにもなります。プロがアマチュアに教えるといっても、表現のプロもいれば、指導のプロもいます。何をもってプロとするかは大変にわかりにくいことです。アマチュア同士で教え合うこともあるので、あまり区別しないでよいとも思います。

 

 スクールでは、入ったばかりの人が、すぐにトレーナーに勧誘されてなっているケースもあります。そういう人は、いろいろと困って、よくここに教え方を学びにきます。教える資格がないとは思いません。長年やっているからといって問題がないともいえません。完成することのない、奥の深いものだからです。

 レッスンやトレーニングでは、「教える―教えられるという関係」が生じることによって、それまでになかった、たくさんの問題が出てきます。それらのなかには、教えるという体制をつくるためにつくられたもの、人によっては必要のないもの、役に立たないもの、害になるものも少なくないのです。

レッスン特有の価値問題

個性とは、多様なものですから、それに基づくレッスンでも多角的にものをみるようにしています。そのことは、共通化、共有化、ルール化が必要とされる実際のトレーニングにおいて、多くの問題を引き起こします。まして組織として、複数で行うと尚さらです。複雑になってもしかたないので、どこかで「エイヤ!」とシンプルに切らざるをえません。たとえば、効果となると、トレーニング前と後に比較ができるような指標をとらざるをえなくなります。

 人間は、わかりたいし、わかりやすいほうをよいと思うので、自ずとそういう方向に進んでいくのです。そういう方向に進めている人が評価を得ているとそっちへ行きたくなります。組織ができるといつ知れず、それが固定観念となっていきます。例外を許さなくなっていくのです。ミュージカルや合唱団なども、その傾向が強いですね。何にあっても「道」というものがつくられやすい日本人は、一糸乱れぬことに美を見出そうとする意識が強いように思います。

 

 一般の人だけでなく、さまざまなトレーナーや専門家がここを訪れてくださいます。それが、固定観念を妨げてくれるところがあります。

人は、正解を求めてくるのですが、私は「そんなものではない」と述べています。

 私の本を読んできた人も、同じことを聞くことがあります。つまり、突き詰めると「でも、正解は?」

 これについては、レッスンという場も、時間が限定された特別な空間として、ある目的をもつ場合での仮の答えとして考えるしかありません。トレーナーに接する時間や場を共有し、ヒントを得るために使うことです。