夢実現・目標達成のための考え方と心身声のトレーニング(旧:ヴォイストレーナーの選び方)

声、発声、聞くこと、ヴォイストレーニングに関心のある人に( 1本版は、https://infobvt.wordpress.com/ をご利用ください。)

ベテランアナと新人アナの違い

 若いアナウンサーの場合、日本では声もできていない状態でTVに出します。すると、どうしても発音のため、口形重視となります。表現力のないアイドルアナをすぐ起用するのが日本です。それをいうなら歌手も声優も役者もレポーターも、すべて似たようなものですが、できないのに出ているために見過ごされていた問題の例です。これは一流レベルでのセレクトがなされている国や分野では起こりえません。

1.口形のはっきりした、わざとらしいくらいの大げさな動き

2.そこでの発音

3.そこでの声

4.伝わる度合

これをベテランアナと比べてください。1~4の重点が全く逆の結果になります。

 ベテランは、

・よく伝わる

・声がいい、個性的

・発音は気にかけていないがクリア

発音の明確さは、本来は目的でなく、内容が伝わることが目的なのです。それがなかなかできないから、発音とルックスで何とかやっているのが、日本の新人アナです。もちろん、TVゆえ、口形も表現力の要素となりますが。

 

発音の前に発声(劇団四季とオペラ)

 声楽家が滑舌トレーニングを基礎に入れていないのは、口形を変えることで、声の質に影響が出てはよくないからです。魅力的な声の共鳴、輝きと発音のクリアさは最高音になると、両立しがたくなります。オペラ歌手は当然、共鳴の完璧さを取るのです。

 初心者の客は、ことば=ストーリー内容を聞きにくるのですが、通の客は、声を聞きにきているのです。オペラは原語で歌われるので、日本人にはわからないから声を犠牲にできない。ゆえに、ヴォイトレの目的と一致するのです。

 役者はことば命ですが、声はしぐさ、表情に従属します。死にそうな状態になりきれば、そこで出た声がリアルになるのです。そこがオペラとの最大の違いです。

 劇団四季は、母音の口形練習を徹底します。誰でも聞きとれるように発音重視の日本語にするため、喉に負担を強います。浅利さんが演劇出身で、ことば重視で音楽軽視なところがみられます。それは日本人にとても合っているのでしょう。日本人は、ことば、ストーリーの方にしか耳がいかないという私の論の証明になります。

 

口を動かさない

 私のテキストには声を安定させるまでは、あまり口を大きく動かさない(発音より発声優先)のです。その期間、あまり表情を使わない人は、補強するトレーニングを本に入れてあります。

高音の練習になるにつれ、表情は動き、太もものあたりにまで支えが求められます。そのあたりでのトレーニングをしていると、表情筋のパーツトレーニングは兼任されるのです。母音で1オクターブ統一できることを目指して下さい(この支えの感覚の要、不要については、改めて述べます)。

 「基本講座」には「へたな練習するよりも、腹を抱えて笑った方がよい」と述べました(これを声の本で最初に引用してくれたのは、巻上公一氏でした)。毎日、腹を抱えて笑っていたら、このトレーニングはいりません。

 目的は、声で伝えることです。発音の明瞭さは一つの要素にすぎません。明瞭なのはよいのですが、明瞭さにこだわり、声質、感情、間、メリハリが犠牲になっては、元も子もありません。

表情たっぷりに歌う人もですが、基礎の発声において、装飾のしすぎは禁物です。

 レッスンやトレーニングで滑舌(早口)に凝りたいときは、その目的でよいのです。

 

顔の柔軟性

 私のテキストにも、表情を各パーツごとに動かす運動を入れています。初心者や自主トレ用に入れたものです。私のレッスンや私自身は行っていません(ここのトレーニングでは似たことをやるレッスンもあります)。

声の調子の悪いときに少しやることはあります。表情がこわばっているときは全身、体の柔軟性も失われていることが多いのです。

 

 自分がやらないのに本のメニュに入れているのかというと、体力づくりや柔軟と同じような意味で、基礎レベル以前のことだからです。それの伴っていない人に、意識づけ、アプローチさせるためのものです。

 

私の頬はゴムまりのようにフワフワになりました。よく使っていたので、あまりやる必要がなかったのです。

 新人の営業マンはミラートレーニングでやらされますが、ベテランはいつも表情が柔らかくなっているので不要です。新人アナウンサーは早口ことばをやって、局入りしますが、ベテランは不要です。身についていたらよいのです。

表情筋のトレーニング

 ヴォイトレでは、表情筋について、よくクローズアップされています。美容で詳しく扱われていたのですが、カメラでさえ笑顔認識する昨今、口角を上げることは、必修化しつつあります。

表情の魅力づくりとして、自己啓発セミナーでもよく取り上げられます。笑いのセミナーもあります。アンチエイジング、ボケ防止、就活、婚活にと、この口角上げは、まるで万能薬のようです。

 声楽やヴォイトレでは、以前から割りばし、スプーン、鉛筆、指などを使って、教える先生もいます。共鳴のために共鳴控を拡げたり、舌根を下げ、喉頭を下げて、声道を広くすることが、直接のねらいです。

ライブラリー☆

 研究所には、アメリカのセス・リグスはじめ、イギリス、フランス、中国の発声のプログラムや音源、教材などがあります。日本のものは、この30年内のものは揃えています。高木東六さんや曽我さん、遠藤さん、松田トシ(敏江)さんのも。今の30代のトレーナーのものまであります。

 

 私と日本の声楽家の叡智を集めた研究所のトレーニングは、私のトレーニングの欠点もフォローしています。

 世の中には、早く上達させられるようなプログラムや機器がないわけではありません。何度もくり返すように、トレーニングというからには、長期的に確かな差となってくるもの、逆にいうなら、ちょっとした違いにしかならないものは、無視するべきです。こういう方針は、現代には合わないのかもしれませんが、死守するつもりです。

 オーディションに受かりたいなら受かることをすればよいでしょう。しかし、その後続かなければ…。人生は長いのです。2、3年でやめる人もいるのですが、プロというのは、10年、20年やって初めてそういえるのです。せめて、トレーニングというなら力になることをやるべきです。その2つの根本的な違いについて、何十回も述べているのです。

役立てる

 レッスンやトレーナーは、本人が役立てるように活かせばよいものです。同じトレーナー、同じ方法でも、活かせる人もいれば活かせない人もいます。誰もが少しずつ活かせる人や方法もあれば、誰かがあるところでバーンと大きく活かせるのもあります。

 私自身が十数名のトレーナーのほか、外部のトレーナーのレッスンの情報も集めて、内外問わず、方向も含めてアドバイスしているのは、そういうことをやる人がいないからです。

 誰もが正しい方法、正しいトレーナー、正しい…を求めています。ほぼすべてのトレーナーが、それは自分だと思っています(私のところのトレーナーも同じです)。

 考えればおかしなことです。皆が正しいなら、皆同じになるはずです。

 目的やレベル、プロセス、自分でできることできないことなどを、個々に絞り込めば選びやすくなります。

 私のところで何人くらいかのトレーナーを経験すれば、日本のあらゆるトレーナーを体験するのと同じくらい、世界の(といっても欧米中心になりますが)およそのヴォイトレはわかります。

 

万能薬はない

 研究所で私が学べたことは、一つの方法をもって、すべてのタイプ、すべての時期にはうまく当てはまらないということでした。トレーナーの違い、方法の違いは、生徒の違いと同じく、どこで同じ、違うと分けることが、すでに偏りなのです。その判断自体が価値観の違いだからです。

 同じとしたものを丁寧に細かくみていくと違うのです。ですから、「正しい判断」について、などという論争は、この分野では不毛です。

 方法やトレーナーについての先入観や固定観念で判断するのをやめるようにお勧めします。

 毎回、少しずつ身になることもあれば、どこかの時間をバーンと飛躍することもあります。しかもそれは、トレーナーや方法よりも本人によることといえます。

応用、進化、分化

 私は、才能があり努力する人たちと、トレーニングを応用、進化、分化させていきました。研究所も、声づくりだけを専らやるところだったのに、歌からステージ、せりふからビジネスのプレゼンテーションなどに広がっていったのです。プロセスは以前にも詳しく述べました。

考えや方法、価値判断を異にしていた人もたくさんいましたので、多くを学べたのです。

今の研究所のレッスンは、私だけで間違えるようなことができなくなっています。

大したことがないように見えるかもしれませんが、個人一人で教えている先生との最大の違いです。実践に鍛えられた研究所たるゆえんです。

若くしてトレーナーになっても、生涯まったく変わらず、同じやり方でやっている人もいます。自分が正しいと、他を否定することでしか自らを肯定できない人もいます。すべては試行錯誤し、間違い、改め、そうやって、ものごとは進歩していくのです。

今の研究所も私のやり方も万全とはいえません。しかし、長い年月にわたり変わっているからこそ、古くて最新でありえるのです。

 

教えることの進化

 私の考え方は最初から変わっていません。「基本講座」「実践講座」に、具体的手段が細かく述べてありますので、参考にしてほしいと思っています。

 最初は、私自身が学び、習得してきたプロセスの体系化で、私の考え方と実践が入っています。その後、改訂したのは、他の人がより対応できるようにするためです。他の人に教えてきた経験を加えたのです。仮説を実践の上に検証して、同じ本を出せたのは、私くらいでしょう。ありがたいことです。

 本の使い方や意味については、何度もくり返し述べています。こういう類の本はなかったため、デビュー本は、今からみると不親切で自主レッスンにそのまま使うには、いろいろと不足がありました。

 ここでレッスンをしている人を元に書いたからです。ありがたいことに、その後、私の本で自主レッスンをしてきた人を、ここでたくさんみることになり、いろんな気づきがありました。

 トレーナーと組むことによって、別の面からの気づきも多くありました。私から学んだ人が教えるのをみると、おのずと、その人がどこを学び、どこは学んでいないかがわかります。相手に対して同じように継承しているのはどこで、改良や別のメニュにして与えているのはどこか、それはなぜか、と考えます。よしあしはともかく、ここでの伝承、伝統ということの現実が、見事にまでわかるわけです。

 私がどのトレーナーよりも恵まれていたのは、365日、全力投球する努力家の弟子(私がそのように言うと怒るかもしれないので、生徒でもいいのですが、敬意を込めて)に恵まれたことです。人として伸び盛りの時期に、ヴォイトレの5年から8年くらいのプロセスを何百人の単位でみるのは、声楽や邦楽でも、なかなか難しいのではないかと思うのです。音大、宝塚歌劇団劇団四季あたりでも、果たして可能でしょうか。

フレーズのレッスン

 歌い手の価値は、声に加え、歌=音楽での創造性です。音色を動かしてデッサンしていくのです。そのイメージのオリジナリティと実現力が問われます。色と線でのデッサンです。最初はイメージからですが、自分のもつ声の上にセッティングできるかを問われます。

多くの人はできないので、自らの声の延長上に、そのイメージを声でつくっていくことがステップになるのです。楽器の音のように自由に動いてくると、それがフレーズになります。組み合わさって作品となるプロセスを踏むのです。私が求める基礎というのは、ここのことです。

 どう作品にするのかは、ヴォイトレでは、応用された表現として、基礎を掘り下げる必要性のためにみるのにすぎなかったのです。しかし、音響の発達で声の不足が補われてしまい(ごまかされてしまい)、その分、その人の表現からのデッサンを、必ずしも声と関わらせることなく折りこんでみるようになりました(特にポップス歌唱において)。

 邦楽の人や役者をみるには、この基礎をもとにすると、同じ土俵でトレーニングできるのです。

基礎メニュでのチェック

1.息(浅い→深い)

2.息→声

3.声→共鳴

4.1~3の体から声の共鳴までの結びつき

これだけで

1.豊かな響き

2.息とコントロールされた声

3.深い音色(声の芯やフレーズでの線)

その人の声とフレーズのオリジナリティのベースが浮き出てくると思います。一瞬でも(=一音でも)、その完成形を自覚すると目的が具体的になります。レッスンはそこが入口です。イメージの入口までにも時間がかかるのです。