充分な声が出ても歌やせりふは、一段の応用レベルです。しかし、そのベーシックな声が出ない人が多いのです。日本人にはほとんどいない、そういう声の発見と育成からスタートするのは、基本中の基本です。
バレエでいうと、一本足でまっすぐ立てるとか、片足が頭の上まであがるなどということにあたります。それができたらステージにバレエができるわけではないのですが、そうでないと何もできない、基礎レッスンで実力の差が一目でわかるということです。
次に、音楽的な耳のつけ方です。これは表現のうち、音声を聞き続け判断してきた私が基準とする耳の力をつけることです。一流のフレーズのメニュを聞いてコピーして身につけていくとよいでしょう。遅く始めてプロの耳に追いついた私だからこそ、そのプロセスが伝えられるのです。
考えてみれば、研究所は根本的な発声が、声優、お笑い、俳優、エスニックから邦楽と、しぜんな声(リラックスして響かせるなどというレベルでなく、体から伝わってくるように鍛えられ、吟味されたレベル)を求める人たちに支持されて続いているのです。
私と逆の価値観や立場もありましょう。私はそれにも大きな期待をしていたのです。しかし、どうもそれはかつてのカラオケや歌の先生のようなものとわかってきました。表面を変えるので速効性(楽に、早く、よくなる、すぐうまくなる)はあります。しかし、それゆえあるレベル以上に抜けていかないのです。
他を否定しているわけではありません。それでそのまま、それなりにうまくいく人もいます。多くの場合、気づかないうちにくせをつけてしまい、そこで限界となるのです。これを発声の根本からみるのです。
日本のポップスの多くの歌手は、このくせを個性としています。日本には、声が人と違う(一人ひとりが違うというレベルに過ぎない)ことで、オリジナリティとみられます。ことばやストーリーでもたせるステージがほとんどだったからです。
声そのものの育成、養成は使い方、あて方、抜き方、ひびかせ方などではありません。自分の音として楽器レベルでの音声をもち、演奏として自分の音を奏でるということです。あくまで完全な演奏能力を扱えるレベルでのオリジナリティであるべきというのが、私の考えです。そのメニュは「ハイ」で、半オクターブで、充分といえます。
速効性のある方法を、否定しているのではありません。名ばかりのプロ歌手相手に、現場でそれをもっとも求められたのは私だったからです。それに閉口して、無名の人が、一から学べる研究所をつくったほどです。
しかし、ここでもそういう要望が大半になってきましたし、今はさらにその傾向が強いのです。その結果今のように海外では通じそうもないヴォーカルばかりになったといえます。向こうを追いかけるヴィジュアル系での、日本独自という別のアプローチは音声で問うヴォイトレからスルーしてのことですが。
私は理想は理想として、現実には求められることに対応しています。ここのトレーナーは、もっと、一人ひとりの要望に応じています。
トレーニングはベースの声づくりです。しかし、相手の要望によって、柔軟に対応しているのです。一見、そうなると他のところと同じことのようでも、そういうことを知ってやるのと知らないでやっているのは、天地の違いがあるのです。
こういったことが区別できないレベルで行われてきたのが、ヴォイトレです。状況に合わせ、声の使い方、つまり状態だけを変えるために調整します。つまり基礎条件が身につかないヴォイトレです。
最近のヴォイトレの本をみたら、そのタイトルに驚きます。編集者は一般の読者の代表ニーズにそって、タイトルをつけます。それが本当に表面的なものになってしまっているからです。