「日本語には、subject(主語)がない」などという批判は、欧米のグラマーに日本語をあてはめているからです。ボクシングのルールで、柔道をjudoにしてしまったのも乱暴なことだと思います。
伝統を尊重する私も、このところの柔道、相撲、野球といった、かつて花形であった各界の幹部のには、日本の古いものの頑なさをみるとともに、時代の波のなかでの対応に大変なのだと同情もいたします。上からはしばかれて育ったのに、下からはパワハラと訴えられる、板挟み、中間管理職の悲哀です。しかし、そこを乗り越えて改革しなくては未来はないのです。
そこでみえてくるのは、組織、集団の中で責任をあいまいにしている、個人としての主体性のなさです。まさに日本人らしいのです。
相手によって自分の呼称さえ複雑に変えなくてはならない日本語は、そういう宿命を背負っています。自分以外であれば、相手が誰であれ、一人でも何千万人でも、youだけですむ言語を見習うことも、ときには必要だと思うのです。