歌が、歌詞やアレンジでしか違いが出せなくなってきたのは、メロディ、リズムのすべてのパターンが出尽くした、とは言わないまでも、かなりの部分は使われてきたでしょう。声も変化させるのにも限界があります。同じ声、フレーズでの変化、それらは、人のことばが人の心に働きかけているうちは失われることがないと思います。とはいえ、そのピークとしてあった歌やせりふがダダ漏れとなっていくとしたら、求めてまでは聞かれなくなります。
それは、下手な朗読や漫才を聞くとよくわかります。時間とともに退屈、マンネリ、不快になってきます。そういう声での、会社や家庭、仲間付き合いになっているのでしょう。パーティのような会話文化や討論などの対話集会の成立しにくい日本ですから、当然でしょう。私は、日本人として、それを悪くない、いや、誇るべき平和な日常だとも思っています。声が役立つときは危険なときです。かといって、声を上げる能力を失ったら、それは怖いことと思っています。