夢実現・目標達成のための考え方と心身声のトレーニング(旧:ヴォイストレーナーの選び方)

声、発声、聞くこと、ヴォイストレーニングに関心のある人に( 1本版は、https://infobvt.wordpress.com/ をご利用ください。)

理想のレッスン

 スケールなども、最初は1音ずつ正しくとるのはやむをえませんが、レガートに一つの線上に声(音)がおかれる感覚を養うことです。一般的なレッスンをみると、あまりに雑すぎます。

 ピアノを弾いていて、注意しないために雑になるのでしょうか。しっかりと聞いていないのです。発声の練習でよい声をとり出したり、育てるはずのレッスンが、音程(ピッチ)とリズムを正しく、ピアノに合わせていくことに目的をすり替えているのです。トレーナーが気がつかないなら、その先に、声での発展は期待できないでしょう。

 とはいえ、時間や量が変えていくこともあるので、トレーナーが余計なことを言わず、黙々とやり続けていくのは、理想的なレッスンのスタイルです。アカペラで声を出すこと、聞くことを勧めます。

 本人の目的や必然性が高ければ、変わろうとする努力がレッスンに出てくれば変わっていくものです。その点は、私はレッスンに期待はしていないが、来る人の可能性や能力について、誰よりも信じています。

歌唱表現と技法のギャップ

 解剖学や生理学の勉強をしても“身”につくものはありません。第一線のオペラ歌手やポップス歌手にそんな人はあまりいません。トレーナーとして人に教える時に、学ぶのはよいことでしょう。餅は餅屋に任せましょう。

歌うときは、頭を空にしないと、オーラ、集中力、気力に満ちたピークパフォーマンスは実現できません。最高の声を取り出したり、保ったりすることに集中しましょう。

 

 歌唱表現に問われるもの

1.声の共鳴―発声―呼吸一体

2.声の使い方、フレージング

3.歌の見せ方、組み立て、アレンジ、構成、展開

 

a.ヴォーチェ・ディ・ペット

b.ヴォーチェ・ディ・テスタ

 

ここに声の理想的なあり方とか訓練は入っていません。いろんな発声法、テクニックやメニュ、方法を使うのは、表現という目的の元に、具体化された問題とのギャップを埋めるためのきっかけです。その日の声のチェックとか柔軟を響きで確認するのは、トレーニングとは違います。

 リップロールとかハミングも、そういう意味で役立てるものです。しかし使われていてもが有効でないことが多いです。人によっては、目的からみて使わないほうがよいこともあります。

 発声のなかで、ビブラートやミックスヴォイスなどということばを使うとレッスンらしくなるのですが、ことばで物事を分けていく(頭でっかちということ)と大きな問題が見えなくなってしまうのです。欠点の修正や、やむをえないケース以外は、イメージ、統一性のある連続感覚の中で、一つに捉えていく方がよいと思います。

圧倒的なインプットのための課題でのアプローチ

 マンネリを防ぐのは、表現の世界での具体的なアプローチをしていくことです。

 歌がうまくなりたい。自分の歌が歌いたい。これに声だけが出ても無理です。リズムや音程のトレーニングをしても無理です。一流の人が学んだのに習います。時間や量を効率化するのが、トレーニングです。レッスンの課題をペースメーカーにします。

 よく例に出すのは、聞き込みの課題ノルマです。月20曲(カンツォーネ4、シャンソンエスニック4、歌謡曲4、日本曲4、自由曲4)で1年間240曲です。ここから20曲セレクトします。2年後には、翌年分240曲から選んだ20曲と合わせてレパートリー40曲ですが、そこから20曲に絞ります。5年ではレパートリー100曲から、本当に人前に出せる20曲、トータルの練習曲数は240曲×5=1200曲。10年なら2400曲ですね。量としてはこのくらいで最低レベルであり、プロのベースと考えています。

 歌える人ならたくさんいますが、オリジナリティとして、自分の世界を、プログラムして、意図的に(それがトレーニングですから)作っていくなら、このくらいをベースに入れなくては、何も出てこないでしょう。

 一流のプロは、質もともかく、圧倒的なインプット、ストックがあります。これにトレーニングを加え、レッスンでは、1フレーズでも、1曲でも、質、気づきを与えます。聞き方、感じ方を変えていきます。体―感覚の相互作用で、効果を出していくのです。頭は、このことで工夫して、フィードバックするのに使うのです。

基礎のフォーム

 初めて何か新しい、スポーツでバッティングなどをスタートしようとすると、余程、勘がよく、体や感覚が優れている人を除いて、ほとんどは手や足、部分的に力が入って、痛くなります。そこで手首のスナップなど教えてもらっても、ボールになんとか当たるだけ、それでは、部活の2年目の生徒にもかないません。毎日のトレーニングで2年生レベルにかなうためには、2年かかります。いくらプロのトレーナーがついたといっても、素振りのフォームが安定するまで繰り返す必要があります。柔軟や体力強化も必要ですね。

 私は水泳をやりました。わずか2年半くらいでも、フォームを支えるに足る筋トレ、左手の補強などで、素人レベルで10年、20年泳いでいる人よりも、速く、長く、楽に泳げるようになりました。続けて毎日行うことの相乗効果です。とはいえ、ずっと長く基礎からやっている人にかなうことはありません。トレーニングは正直なものです。声だけが別ということはありません。

二重の方針

 とはいえ、誰もが一流の大歌手などを念頭おいているわけではありません。声楽のトレーナーで、声域やバランスについては、他のところのトレーナーより、ずっと条件の変わることを長期的に考えた上、短期の成果も出すことを、セットしているのが、今の研究所の体制です。

 これはプロで舞台、オーディションが迫っている人が増えたための対応でもあります。こういうときは私もバランス重視でみます。条件を大きく変えることよりも、状態の調整を優先しなくてはならないケースなのです。

 

 レッスンであるので、今、困っている問題でいらっしゃると、そこに、発声のメニュ、方法ですぐに応えてみせると、人気が出て評判もよくなります。

 発声の本にあるように、軟口蓋を上げて響きをまとめ、呼吸で支える。

 呼吸筋を鍛えて、息そのもののコントロールを強くも繊細にもできるようにする。それのできない体や感覚でできることは、10分の1なのです。即効のメニュやレッスンをやりつつも、長期的に上達する方向でのプログラムを続けていくのが、基本方針です。

声そのものでみる

 ヴォイトレは、うまくなるために受けるのに、一時でもコントロールが乱れたら失敗と考えるのでしょう。基礎から変えたいなら、大きく変わるためには、今の発声から離れなくてはいけないのです。バランスとピッチ、リズムにだけ合わせようと、くせをつけたり、ぶつけてきて覚えてきたのです。そのことを守ろうとしている限り、大して変わりようがないのです。

 こういう人は、今まで歌えてきたこと、そこが技術やスキルと思ってきたことが、自分がより大きくなる部分を邪魔していると、気づいたのに、また見失ったということです。

 「そういうやり方やメニュは間違っている」と言われると、安心して、それを直せばよくなると思うわけです。そういう調整トレーニングにつくと、さらに表面的な技術やスキル、メニュやノウハウばかりを増やして弱化していくことになるのです。

 声そのものがトレーニングされていない限り、同じ問題は残ったまま目立たなくなるだけです。スケールの大きな跳躍はかないません。

バランス重視で没個性

 気をつけなくてはいけないのは、すぐに仕上げようとするなら、必ずバランス重視となることです。バランスを整えるのは平均化です。そこから個や我が出てくるでしょうか。むしろ、それを抑えることがバランスをとるということになりがちです。

「我」が、くせと一緒に除かれてしまうと、個は育っていかない、つまりは、誰かのような声、誰かのように歌うことになりがちです。

 私が最初、日本の声楽家と組まなかったのは、そのことが大きかったからです。ちなみに日本にいる外国人トレーナーも日本人をレッスンするときは、この傾向が強くなります。日本になじんで受けのよいトレーナーほどです。そういうタイプがトレーナーになっています。

 歌のうまいトレーナーにつくほど、人は育ちません。教えるのがうまいトレーナーほどテクニック漬けの、おかしな歌になってしまいます。それは、日本ではミュージカルの一部に顕著です。

 

 バランスよりインパクトを重視すると、一時、歌は下手になります。「これまでの歌では通用しないから根本的に基礎から変えたい」といって来た人が、いざ、そのようになると、あたふたと不安になります。前よりも高いところが出ない、フレーズが回りにくい、ピッチ、音程が不安定になる…と混乱します。一時でもマイナスになったところばかり気にする、また、周りに指摘されるからです。立場の弱いヴォーカリストではその声に抗えません。何事も、新しく試みると、その試みが大きいほどマイナス点も出てくるものです。

 できているのなら、そう歌っているのにできていないから、直す、いや補充するのでしょう。ですから、いろんな乱れが生じるのは当たり前です。

 伸びないのは、守りから出られないからです。本番、バンドやステージがいつもある人は仕方ないので、切り替え力に応じて進行を加減します。

判断の違いに学ぶ☆

 声に関する絶対的な判断はないということです。声楽家でさえ、一流の人は、生涯にわたり研究して発声を変えていきます。スポーツ選手、野球選手やゴルファーでさえそういうものです。プロセスや芸の道に判断基準はあるから、レッスンは成立するのですが。相手やそのときによって、かなり違ってくるということです。これがわかるトレーナーは、あまりいません。一人で指導していては、気づく機会が少ないからです。

 一人の判断では○か×かですが、二人になると○○、○×、×○、××と4つになります。私がそこに入ると2の3乗ですから8つの判断パターンがあります。一人のトレーナーのなかでも○×でなく△とかになることがあるでしょう。基準として、大切なのは独り立ちしていくために、その人自身が自分を判断する時に、本当の力となるのは何でしょう。それは○×のように判断のわかれたところや△をどう細かくみることができるかです。

 2人の意見が○×に分かれたとき、私が○なら○○×で、2対1で片方が正しいということではないのです。正しいのは○○○の一致だけかもしれませんし、3人一致で決まるものでもないのです。つまり、何をみているかということの違いなのです。そこは、やがて本人もわかるかどうかです。

 審査する人が3人いて、あなたの歌や声に対する評価が違うときもあります。あなたは、自分自身で判断しなくはなりません。その基準をどのようにトレーニングで得ていくのかが、本当のレッスンの意義です。

 

多様な見方を知る

 研究所内ではレッスンがマンネリにならないように、時々、他のトレーナーにサードオピニオンとして、一言アドバイスさせたり、ローテーションを変えることをお勧めしています(原則として、最初から2人以上トレーナーがついています)。

 研究所の外で別にトレーナーについている人が、そこを続けながら来ていることも少なくありません。私のところは、困りません。当人が、使い分けられたら問題はないのです。

 先方のトレーナーが嫌がる場合は、秘密厳守にしています。日本で有名な劇団やプロダクション、養成所では対外レッスンを禁止しているところがあります。そういえばオペラ界でも邦楽や落語業界でもタブーですね(音大では少し自由になってきたようです)。

 

 世の中に出て、いろんな人にいろんなことを言われていく歌手や役者、声優が、それで育つわけがありません、一人のトレーナーの価値観の中で、同じ判断を共有するのはよいのですが、それしか知らずにいるのは、どうでしょうか。

トレーナーとの分担

 トレーナー、声楽家は、現実に、ここにいらっしゃる方には、とても役立っています。ニーズに応えるのが仕事ですから、そこはそれでありがたいことです。

私も応用ということで、基本を掘り下げつつ、ムチャ難題、いろんなところで解決できなかった問題の持ち込みに対応しています。次々と新たな問題を持っていらっしゃる人がいるから、ここは長年、声の研究所として活動できているのです。

 何よりも、声や歌が育っています。それは、目先の結果でなく、何年後の感覚や体の違いに焦点を当てているからです。

 1、2割うまくなればよいという人はアマチュアなら、カラオケの先生、プロならプロデューサー、役者なら演出家にアドバイスしてもらえば早いのです。そこはヴォイスアドバイザーとして使い、ヴォイストレーニングに使うなら、もっとしっかり考えなくては、もったいないです。トレーナー自身も伸びません。少し歌えたり声の出る人が、もう少し歌えるように、もう少し声が楽に出るようにしているというのでは、大した成果をもたらしません。 歌のプロと演技のプロと声のプロは、違います。応用は、歌やセリフ、その基礎が、声なのです。

 

 私のところは、今年10年、20年とプロの活動をしてきたり、トレーニングをしてきた人もよくいらっしゃいます。研究所には私よりも年配のトレーナーも何人かいます。

 桜の美しさでいうと、葉桜の美しさを何年かしたらわかるかもしれません。歳をとってこそ、経験してこそわかることもあります。それを若いトレーナーに求めるのは酷ですから、いつも知っていることの裏に、知らないことがあること、きちんと知らないということさえ知らないということを、アドバイスしています。

 

研究する

 私は、ヴォイストレーニングに、プロレベル、そして生涯、長期に使えるということを想定しています。どのトレーナーについているとか、研究所にいるとか、いないなどと関係ありません。

研究所をやめても、多数の人が会報を購読しています。レッスンに戻ってくることもあります。そういう例は他にはあまりないでしょう。声の研究誌を月刊で出しているところは、世界にもありません。

 研究所ですから、自分の研究をするのです。私もトレーナーも、レッスンにいらしている人も研究です。

 

 作家の渡部淳一さんが以前、「歌手は、覚えた曲を歌っているから楽だ。小説家は…」みたいなことを述べられていました。仕上げたら、またゼロから筋を考える作家は、大変だと思います。そして日本の歌手の多くは、彼らからそう思われても仕方ないほど、クリエイティブでないのも確かと思いました。

 プロでもデビューあたりまであったインパクトや声量が、昔なら7、8年、今や2、3年も経たないうちに、なくなるのです。無難に安定して、テクニックに頼った、危なげない歌唱になっていくのです。その結果、歌は、いや歌手の歌は市民権を失いつつあります。私たちの生活に必要なものから、離れていきます。そこに今の歌の凋落がある―とまでは言いませんが…。そういうステージを許す日本の客、プロは、ステージでは鋭いから、客に応じているとするなら、そういうステージを期待する日本の客というのがあるわけです。プロデューサーからトレーナーまで一色汰で、まさに日本らしいのです。

 私は、そうでなく、もっとも個の感覚や息にのっていく声、その表現を作り出す、場を提供してきました。しかし、多くの人が求めるのは、目先のテクニックや調整なのです。

役者と声楽家

 私が声楽家と組んでいるのは、彼らのオペラの舞台での実力レベルでなく、5年、10年、15年以上、発声や共鳴、呼吸を人並みでないレベルで高めてきたプロセスを買うからです。そこまでのプログラムと方向性に、発声の基礎の共通点を見出しているからです。

 彼らは、先輩、同輩、後輩と、一定の基準をおいて多くの他人の成長を長くみてきています。それは、よい経験です。

 研究所の発足時、私は役者の声をベースにして考えました。日本の声楽家一般よりも個性的かつ、強く豊かな声に思えたからです。ただし、日本の歌い手の場合、声域(高音域)での問題があり、そこでは共鳴を集めて行く必要があったので声楽を使うようにしたのです。

 役者は、3年、5年くらいは声もセリフによって鍛えられますが、その後は、表情やしぐさに声が従います。死にそうな演技をしたら、死にそうな声が出るのです。そこは個性というより、なり切りようです。死にそうな声のメソッドやトレーニングはありません。役者は、役によって、声はバラバラです。

 声楽家は、死の間際のシーンの表現にも体からの歌唱、つまり発声呼吸、共鳴をキープします。ことばは発声を妨げることでもあります。となると、セリフでの発声よりは、共鳴での発声の方が高いレベルをキープできます。

 これは、ことばを伝えるという限定のある役者と声の輝き(共鳴)を優先できる声楽家の大きな違いです。それを職業や現場での使い方で分ける必要はありません。

 私は、役者や声優だからこそ、ことばを離れた声だけのトレーニングをすることに意味を感じるとよいと思います。ベテランは、セリフを読ませたら、もうスタイルができていて、あまり直すところもない。さらに声の力をつけるなら、イタリア曲の歌唱(アリア)を使う方が、極端ゆえに気づく、変わる―という結果につながるのです。