夢実現・目標達成のための考え方と心身声のトレーニング(旧:ヴォイストレーナーの選び方)

声、発声、聞くこと、ヴォイストレーニングに関心のある人に( 1本版は、https://infobvt.wordpress.com/ をご利用ください。)

フレーズ

 私が1フレーズにこだわるのは、その人の表現と判断の精度をあげるためです。

 ど真ん中にくればホームランとなる力を養います。そのために再現性が必要で、そのためのフォームもいります。タイミング、勘、筋力、神経など、あらゆる心身の能力のパフォーマンスを上げておくことです。ここに知識はいりません。

 喉が他人と違っていたり、声が違っていても、気にすることではない。むしろ可能性を豊かにしていると捉えることです。普通の人ならデメリットになることをメリットに高めてこそ、個性であり、一流への道を切り拓くのです。

 そこに研究者の協力があるとよいと思います。日本のスポーツも、それで補強されてきました。しかし、誰もがそこで力を培ったのでなく、育った人は、高める機会をもらっただけなのです。多くのアスリートは誰よりもたくさん練習し、覚悟し、自力で工夫してきたのです。頭を使うなら、自分のトレーニングにどう全力を投じるかということです。

 実際にはスタートライン前でうろうろしている人が多いのです。

 5キロ走ったら足が痛くなった、だから病院に行って、パーソナルトレーナーについて、というのは、なんと贅沢、虚弱かということです。

 喉の手術をしても、ドクターの制止を振り切り、2,3週間で現場復帰し、高熱や大病でも、それを隠して気づかせない、そんなプロも、同じ人間です。喉が合金でできているわけでもないのです。トレーニングで鍛え、リスクを背負ってきたからこそ、微妙なコントロールで鋭く使えるようになるのです。

 それに対して、第三者の観点からサポートしているのが、トレーナーです。

 昔の私は無視か制止をしていました。アーティストは暴走するからです。今はムチを入れなくてはなりません。アメを与えすぎられているからでしょう。これは時代が変わったというより、人間力の劣化と思います。

バランスとインパクトにスタンス☆

a.ステージ=状態、調整、リラックス、バランス(声域)、本番

b.トレーニング=条件、強化、集中、インパクト(声量、音色)

 これは、私がよく使う声や歌の本番(ステージ)とトレーニングの違いを述べた対比表です。aはマイナス、ミスをなくす方向、bはプラスをみつける、個性を引き出す方向です。

 本人自らbからaに行くのが自然な流れです。つまり幹から花です。しかし、声に関しては日本では、幹がしっかり根を下ろさないうちに花を求めるので、あまり大きくなりません。

 日本では、形、それも輸入された作品のコピーや、そこからの評価基準を薄めて採用してきました。そのために、手本をまねる傾向が強いので、その形が漠然としていた頃は、まだ個性豊かでパワフルなスターも出ていました。だんだんと形をまねるだけになり、まさに形になっていったわけです。

 声楽家もヴォイストレーナーもaでの技術面については、うまくなったと思います。音痴やガラ声のような歌はなくなりました。それは同時に、個性をも殺すとまではいわないまでも、個性を伸ばせないようなものにしてしまったのではないでしょうか。第一級の人材が出なくなっています。

 私などはトレーナーの判断で、育てたりできるのは、一流のアーティストではないと知っています。そうであれば基準の判断力を与える、プラスして考え方や精神のフォローをすることで充分と思っています。

 それではレッスンになりませんから、きめ細やかにその人をメイキャップし演出していく、日本ではそういう形を持った人でないと使いにくいといった傾向があります。才能よりも、従順さを優先しているからですが…。

程度~ワークショップ

 私がバッティングセンターで、プロのバッティングコーチに打つコツを教わると、快音が響くようになるかもしれません。うまくいくと最初は、よい結果が出るでしょう。でも次の30球で息切れ、集中力が切れ、やがて腕がマヒするでしょう。

100球中、70球ジャストミートできる人は、1つの町内に何人かいるでしょう。そんな程度までとわかっていてやる分にはいいのです。イチローのように、小学校からマシンで毎日何百本も続けたら高度に身につくかもしれません。

 多くの人はワークショップの日で終わります。次に別のワークショップで、似たことをくり返します。知識は豊かになります。頭では理解でき、人にもしゃべれるようになりますから、一見上達したようです。が、体というのは毎日相当にやらないと変わりません。

 知識は100分の1の人に役立つ、あるいは100分の1くらいは足しになると言いましたが、その言い方を借りると、100分の99は知識と関係のない、体のトレーニングの積み重ねから生じる結果(効果)です。つまり、ワークショップや診断のチェックは入口、あるいは、その前提です。

私は、それが必要条件とか、前提とは思いませんし、害されているとはいいません。しかし、誤解を広めていることが多いのが現実だと知っています。

 一言でいうと、「中途半端な知識ほど害になるものはない」のです。私も本は読みますが、そこに述べられているからといって、そのまま使おうとは思いません。まじめな人は、何とかの一つ覚えみたいに、教わったり、読んだだけで、他の人のメニュを教えるのにも使っているようです。

 私はメニュや方法自体についてよし悪しはないし、使う人の技量次第と思っています。ですから、知ったメニュを試してみるのはよいと思うのです。自分自身に試すのもよいでしょう。

自分に効果があったからと、目的も資質もキャリアも違う人に、そのまま当てはまると思い込むことがよくないのです。

だからといって死ぬほど危険ということではないので、程度問題ですが…。トレーナーとメニュとの関係については、いろんな問題があるということです。

一日の効用~ワークショップ

 私は気づきを最大の効用とし、一日でよい声を出せるようにするワークショップには重きをおいていません。自分の今のなかでよい声が出たらそのままで通用するという、誤解を与えてしまうからです(私はそれを「ベターな声」と言っています)。

 それならば、なぜワークショップで出せた声が、同じ体なのに、いつも出せないのかということを追及して解決していないことが欠陥です。

 プロのトレーナーの演出のマジックで、心身がリラックスしそのときだけ取り出された声色、それは一人では出せないのです。

 喉の仕組みや腹式呼吸などの筋肉などの働きから説明されると、そのメニュや方法が、あたかも効いたかのように思うのです。

 そういうセミナーやレッスンは、コンプレックスの払拭のためのものです。自信を持つという効果が最大のメリットです。つまり何度も受けて慣れるというのなら話べたの人や緊張して人前でうまく話せない人などのメンタル改善にはよいでしょう。

声の症状と日常性

 声がかすれる、喉が痛い、声が弱いという症状でいらっしゃる人が増えています。養成所やプロダクションに入ったり、オーディションを通ったりした直後のプロやセミプロにも多いことです。

 昔は、喉について教えてくれる人はいなかったのに、今は、あなたの喉はこのようになっているとか、他の人と違う、などと、丁寧に説明してくれる人もいます。そのために、うまくいかないのは喉のせいだと思い込む傾向が著しくなってきました。

 アドバイスや知識を得るのは悪いことではありません。自分を知ることも、勉強するのは、よいことです。私も毎日、いろんな本を読み、学説や論文にも目を通しています。

 しかし、それは現場では大して使いません。というより、使えません。もっとも使っていると感じるのは、自己否定的な態度をとる人の根拠を崩すためです。知っていることによって、よくない方向に振り回されている人に、それを忘れてもらうためです。早くトレーナーを信頼してもらうのに必要なときがあります。

知識を信じる人は知識のある人を信じ、それを使わない人を信じません。知識の虜となっている人は、固まった頭をほぐさないといけません。

理屈で納得したいのですから、頭で理解しないと体や感覚にも効かないのです。それは大きな欠点です。細かいことや正しさにこだわる人に多いです。今の日本では一般的になりつつあり、結果として救われないのです。

 「それは確実に上達できるか」「絶対に効果はあるか」「何回、何ヶ月か、いくらかかるか」というアプローチをするような人です。

 私はその問いも半分は当然のことと思っています。できたら、これらの問いに対してクリアしたいと思っていますから、問うこと自体を否定しているのではありません。

 しかし、声や歌は日常のものであるからこそ、そういう問いは、不毛になりがちです。変えるためには、非日常なレベルに目的を置き、必然性を高めておかなくては、いつものレベルに戻ってしまうからです。

プログラミング

 研究所では、プロの表現については私が中心で、目標の決定から、管理し、プランニングをつくっています。基礎づくりは、初心者は、トレーナーにつきます。プロについては、その人の資質や方向によって、いろんなスタッフを加え、分担しています。

 少なくても100分の1や、10分の1をもって、自分の何かが大きく変わるような錯覚は起こしてほしくないのです。

 「その日の喉の調子がよくなる」ことと、「2、3年後の実力(声力)」がつくことは、全く別の次元のことです。

 ここでは100人に1人くらいは、治療などをした方がいい人もいます。専門外のことには、専門の人に引き合わせる判断をします。年に何人か、医者のアドバイスのもとに、トレーニングを併行していることもあります。

声のリハビリ

 1年間入院していた人が、退院した翌日にマッサージでほぐしてもらっても、マラソンには出られません。私は1週間入院したことがありますが、その後1ヶ月、あまり体を動かせませんでした。そこで、3年の計画を立てました。1年目は、息と体、2年目は、発声と共鳴(半オクターブ)、3年目は、1オクターブ半(2年目にコンコーネ50を50番までやりました。最初は10曲でも調子が悪かったのが、2年かけて50曲できるように戻しました)、私がトレーナーゆえ、よくわかっていることであり、年の功です。

 

 いつも触れていることは、目的のための具体化したスケジュールと必要性の向上です。これが日々の計画と欲であり、表現と基礎ということにあたります。

 3年後のマラソン完走にはさかのぼってプランニングします。そして最初の1ヶ月目、1日1万歩、ジョギング、柔軟や体作りから、というようなことです。そこで医者に行くとか、整体師のところでほぐすのは、チェックとしてよいことです。

問われるは毎日、どれだけ練習をやったかということ、それと目的との距離、ギャップや方向づけ、それを埋めるプログラム、日々のトレーニングの計画をきちんとさせているか、ということです。

100人に1人

 喉が弱いとか、傷めやすいとかで体の不調で医者に行くことは悪いことではありません。大体、行く必要のある人は、10人に1人くらいです。メンタル的に頼りたいとか、安心したいという本心で、5、6人でしょうか。整体やマッサージなどと似てきます。

 それは、そのときの心身の状態をよくすると声もよくなるということがメインです。それで1、2割よくなったり、元に回復したところで大したことのできないのは、スポーツやアスリートを考えたらわかります。

10分の1の人のうち、本当にそこに行って効果のある人は、更にその10分の1です。つまり、100人に1人、あるいは100回行って1回くらいでしょう。これでも、私は多めに数えているつもりです。

表現と基礎の間で

 桜が舞い花吹雪が水面を埋め、桜色の流れゆくのにも心打たれる。これも自然の表現です。

私が枝を揺らすと、パッと桜が散ります。それを見て、小学生たちが並木を次から次と幹を両手で揺らしていきます。あまり、桜は散りません。

“そんな唄をたくさん聞いているな”と思いました。力づくでは、絵にならない、桜の幹の力に負けているのです。基礎と応用、そんな話をしてみたいと思います。

 

 最近、いろんな分野の専門家が、ここに学びに来ます。ここではいろんな分野のトレーナーもレッスンを受けています。他でよいレッスンをするためにここにいらしているのです。

 私は誰がいい、どれがいい、どの方法やメニュがいいなどに関知しません。そういうところで頭でっかちになった人の頭をはずすのを引き受けています。そういう人はたくさん勉強して覚えたら、声も歌もよくなると思い込んでいるのです。

 桜の散るのに心を打たれるには、素直な心で、受け入れることです。「ソメイヨシノが日本の桜の中では…で、それは…であり…」などという知識はいりません。学者とアーティストは違います。人よりも、感動する心が豊かに保つのに努力もいるのです。それは知識ではありません。もし知識とするなら、科学や文明よりは、教養、歴史や古典などを通してのイマジネーションをふくらませるものでありたいものです。

心身是精進

 正しいトレーナーとか、正しいヴォイトレの方法といった、うわべの違いに囚われず、きちんと本質を踏まえて、トレーニングを続けていくように整えていきたいものです。

 時間はかかります。でもこれまで時間をかけてこなかったなら、当たり前のことです。時間をかけましょう。

 いつも離れず身についている体ですから、楽器ほど大変ではありません。誰もがもっているから、表現のレベルまで身につけるのが大変なのです。

 声を、どのようにイメージして使っていくか、ということに敏感になることです。

 レッスンは、その気づきに材料を与える場にすぎません。この、すでに身についているのに、身についていない、正体の分かりにくいものを、明快にしていくために、レッスンを使っていくのです。

 声で、全てのものごとがよくなるわけではありません。うまくいかないときに、声がよくないことは、とても多いのです。

 歌うとき、せりふを言うとき、毎日、声は使っています。でもその声はレッスンだけで変わるわけではありません。日々是精進、モチベートを下げないようにしましょう。

 声の場合、基準があいまいになりやすいのです。つかみどころがなくなると、やる気も失せます。レッスンをペースメーカーにして、日々挑戦し続けて下さい。

 死ぬ直前までよい声が出たら、嬉しいと思いませんか。なら使い続けることです。心身の健康があってこそ、声がよりよくなっていくのです。

多様性のなかでの声

 沈黙でも伝わるだけのものがあります。だから声を出したとき、輝くのです。

 まずは、声そのものを輝かせていく、それを結果として、手に入れていくのはレッスンです。どこの国にも民族にもある魅力的な声は、かつて日本にも満ち溢れていました。このところ、急速に失われているように感じます。

 ヴォイトレが普及したのはよいことです。声は努力次第で、誰でも向上できるツールです。声を出したり、使ったりするのが苦手な日本人が多くなっていくので、その価値は高まっていきます。

 日本人は、他国に対する劣等感を、辛抱強く努力して、克服してきた民族です。それが一人前の大人としての、一個人としての表現の力として獲得するのでなく、カラオケや、初音ミクのような、ブレイクスルー(ハイテク化)で超えていくだけではならないと思います。そういう発展の方向があるのはよいのですが、そこが中心であるのはよくないと思うのです。

 声は、人と人が触れ合っていくというところに生まれてきたものです。直接的なスキンシップでなく、空気を振動させて相手と触れあいます。それは命の架け橋にもなります。大震災でも、電話一本の会話が欠けがいのないものになりました。

 声力で劣る日本ゆえに、こういった研鑽、努力を重ねて、いつか世界に冠たる声力を、多くの人が手に入れることを信じたいと思います。

感じる人

 竹内敏晴さんの「人間、この声、命の輝き、衝撃」を、私は「生命力、立体感」と言っています。今のことばで言うと、「リアル、3D」でしょう。あなたがここにいて、その存在感が、オーラを放っているように、その一つの媒介を声として欲しいのです。歌わなくても、声を出せなくても、伝わるならもっとよいでしょう。

 私もそのようなレッスンを目指していました。1990年代後半から感じる人が少なくなりました。研究所はそういう人の集うところから、そういう人を育てるところに変わっていきました。他の人のせいではありません。私の限界だったのでしょう。