夢実現・目標達成のための考え方と心身声のトレーニング(旧:ヴォイストレーナーの選び方)

声、発声、聞くこと、ヴォイストレーニングに関心のある人に( 1本版は、https://infobvt.wordpress.com/ をご利用ください。)

独自のフォームへ

声は、体が楽器です。そこで、共通して人間のもつ体というところで、あるところまでは共通のトレーニングができます。能力、体力、集中力、呼吸など、他のことで共通している基礎といわれるものがあります。

 そこからいつかは、独自のフォームを持つ世界へ入るのです。野球でいうと王、張本、野茂、イチローといったところでしょうか。

 オリジナリティとは、他人がまねられないフォームの確立のことです。その結果による実力が一流の証明です。

歌やせりふはアートで、スポーツより自由が効くので、本質のが見抜きにくいです。見抜く人は早くオリジナリティの壁につきあたります。見抜けない人や、他人のようになりたい人は、異なる壁に突き当たります。見本のようにはパーフェクトにできないという不可能の壁です。

 そこに優劣の基準を設けることは難しいことです。人の好き嫌いというもの、ファンという移ろいやすいものに支えられているとするなら、エンターテイメントとしてみるしかありません。

 とはいえ、何でもOKです。よいものは人に伝わり残っていきます。そういうものを価値とする、というのは結果論です。

 そこまで考えると、ヴォイトレのよしあしも申せません。いろんなメニュや方法で、いろんなトレーナーや関わる人がいるという状況で、私もよしとしているのです。

 

量的な時間と質的な時間

才能、トレーナー、金、方法などは、量の質的転換において使えるのです。

精一杯やれば、今の自分の限界がきます。本当の自分の限界を知るためには、一つ上の何かが必要です。それがレッスンと、それに基づくトレーニングです。

ここで初めて、あなたが判断し行動を統制する才能と、それを補助するトレーナーが、本当にものをいいます。

あなたの位が上がるにつれレベルの高い参謀が必要になります。

歩兵には参謀は使いこなせません。将軍には参謀が必要です。共に持っている専門能力は違います。それぞれに高めあってきた能力を合わせてことにあたっていくわけです。

限界、制限あっての個性の表現

レベルが上がるというのは、可能性の世界のことです。クラスのなかでバスケットボールが一番うまくても、バスケット部に入ったらどうでしょう。市の優勝校のエースでも、県では、国では、オリンピックではどうでしょう。能力がついて活躍の場が上がるほどに、自分以上の存在や能力をまわりにみることになります。そこから上がるには、誰もかなわないところにいくしかないでしょう。そこから、本来の意味での、オリジナリティが決まってくるのです。

 

 私は「才能があれば…」「金があれば…」「方法があれば…」「トレーナーがいれば…」などという人には、期待しません。大切なのは時間です。時間があなたを変えていくのです。

トレーニングの本意

 確認しておきます。トレーニングで潜在的な能力を開花させていくのは、そのことですべてが可能になるからではありません。むしろ、「やっていない人たちのなかには、やれば通じること」でも、「やっていない人たちのなかではやるのがあたりまえで、なかなか通じないこと」を知るためです。つまり、自らの勝負をできる場を知るためです。

努力するのは、敗れる限界を知りつつ、そこを破っていくことで、自分の本当の限界を知ることです。

ヴォイトレで声域や声量を拡げたい、でも拡げても、限界があります。あなたの限界を超えてやれる人もいます。上には上がいます。

 努力しても、努力していないようにみえる人にかなわないこともあります。そこから本当の個としての勝負が始まるのです。

ダブルバインド

 日本の声の表現での二重性(ダブルバインド)について、プロデューサーや演出家はもちろん、トレーナーも、それを助長してきたのは否めません。

 あこがれの歌い手のような声で、その歌い方のように歌いたいのは、誰もが同じでしょう。カラオケの指導や、ヴォイトレは、そこにも使えますが、それは真意でないと私は思っています。

自らの器を大きくして、今は非日常のものを、明日の日常に化していくことがトレーニングだと思うからです。

トレーニングと努力の才能

 誰でもトレーニングしだいで何でもできるようになるわけではありません。結果として自らの潜在的な能力を開花させるところまでです。

 それを理想の方へ、変えていくのです。何かをなしとげた人は、努力で叶うと言います。すべてが叶うほどの努力をした人の言うことを否定するほど、私は傲慢ではありませんが、それだけが真実なのではありません。そこまでの努力ができるのも一つの才能であり、それ以上の努力をしても適わないこともあります。

その人らしい声や歌

 声、ことば、歌は、日常のところに帰る必要があります。でも日常では、それゆえに、ふしぜんにできません。そこでトレーニングします。日常を変えることもトレーニングという必要悪においては可能なのです。

 特に日本の場合、歌やせりふが、その人の日常に求められるものでないのです。別に形づくられ、そこから判断されるのでややこしいです。

 私はヴォイトレで、その人の声、その人の歌の復権を意図してきました。業界の求めるものでなく、本当の意味でのその人らしさです。この「らしい」さえも、日本では形が優先されます。

 そこがよくわかる例の一つは、ミュージカルの歌です。ブロードウェイと比べてみましょう。本場のゴスペルと日本のもの、合唱団などと比べるのでもよいでしょう。

変わること

なぜ、何かを知ることで変わると思うのでしょうか。

 体が正確に動いている限り、大きく変わるのは、ハイリスクなことです。

 日常は安定しているから日常で、そうでなければ非日常です。

歌手や役者は、虚構の世界の非日常的存在として表現者たるのです。それでありつつ、そこでの本質を日常化していくことで、プロとして一流としてのキャリアを積んでいきます。

 デビューのときには緊張してあがっているのに、慣れてくると落ち着くのと同じことです。でも高いレベルへ挑むと、また緊張するはずです。そのうち、場や相手など、まわりに左右されずにできるようになります。舞台が特殊に日常化したのです。そこから各々の世界を作るべく、自立した個として、イマジネーションとの格闘に入ります。

モデルとグレーゾーン

あなたの声も歌も、あなたが否定しているとするなら、すぐれたモデルをイメージとしてインプットして、そこから正すことです。それが唯一の王道です。トレーナーがそれを左右する存在ではいけないのです。

 何かを教えたり、アドバイスすることは、有益であるほどに邪魔もするのです。薬と同じです。たくさんの薬はいけません。中途半端に他の本や他のアドバイス、レッスンを受けて混乱するのもよくないです。

 そのグレーゾーンのレベルで、悩むなと言っているのです。悩むとネガティブになり、行動が後ろ向きになります。他からここのレッスンに移ってくる人の半分はそういう状態ですから、よくわかります。問題の解決でなくてもトレーナーを移るという行動でポジティブになるなら、それも一つのアプローチです。

自分と体での判断

トレーナーの言うことや理論に振り回されることは、本末転倒です。

 情報量を中途半端に増やしていくことを学んだと思うこと、そのために決めつけたり、混乱したりするくらいなら、「情報をマックスにして判断不能にしてしまえばいい」と思います。それでこうしてたくさん述べています。

本人の資質もいるので、必ずしもお勧めはできませんが、「すべての情報を切って体で動くこと」です。

 「ハイ」でもスイングでも「どれが一番いいですか」と聞く前に、本当に見分けがつかないのか、選べないのか、とことん試してみればよいのです。

 体というのは、頭よりも正しくて、精巧なメカニズムで動いています。少しでも狂ったら死んでしまうくらいに、あなたの体は正確無比に働き続けてきたから、生きているのです。そこを信頼すればよいのです。

代用

「まず楽しみましょう」という人の行うヴォイトレのワークショップやカルチャー教室は、きっかけとしてはよいと思います。それをトレーニングとは思わないことです。体験する機会として行われているからです。私も似たことを導入としてやったときもあります。しかし、そのままトレーニングに結びつけられないのは欠陥です。

 バッティングセンターでも100回振るのではなく、いいフォームを100回みて、1回振る、イメージ通りに一回振るために、バッティングセンターの外で、素振りを100回振る、そのための筋トレをすることです。本来の上達は、そこからです。

 声や歌も同じように考えてよいと思うのです。歌い込みが大切なのは、表現でのオリジナルのフレージングのレベルでのことです。基礎は、何回も聞き込むこと、100回聴いて全身全霊で1回行うのです。そのために別にヴォイトレの時間をとって、声を鍛えておくことです。

 量だけでも、質だけでも足りないのです。このようなことに時間、量をかけることで、質とつながるのです。そこを区分しておいた方がよいということです。このあたりを、レッスンと自主トレの関係と私は考えています。

 家では、思う通りにやりたいだけやればいいのです。よくわからなくなってもよいのです。それに指導や方向づけを与えるのがトレーナーのように思えます。本来は一流のアーティストやその作品からの天啓です。その代りとして、トレーナーが部分的、ある時期、関わっていると考えてください。

積み重ねても固めないこと

バットにボールをあてることが先決なら、バント練習もありかもしれません。それが第一歩といっているのが、今のヴォイトレのように思えます。早く楽しむための手段として考えるとそうなります。

 ここがややこしいところです。そこにいる客を満足させるところで判断されるライブと、客を超えるべき一流の作品を、どのように考えるかでしょう。

 高校の野球部員、ノンプロの打者でも、バッティングセンターなら10発10中、ジャストミートします。まわりでみてはいる人は驚くでしょう。でもプロとはレベルが違うのです。

 舞台は、客商売であるので客のレベルにも左右されてしまいがちです。至高の表現よりも瞬時の作品として、確実安全なものを求めてしまうのは当然でしょう。でも表現者なら…。

大きな素振りをしたところからトレーニングの一歩が始まります。そこに、柔軟から体づくり、筋トレがあるものでしょう。