夢実現・目標達成のための考え方と心身声のトレーニング(旧:ヴォイストレーナーの選び方)

声、発声、聞くこと、ヴォイストレーニングに関心のある人に( 1本版は、https://infobvt.wordpress.com/ をご利用ください。)

声はメタ

「言いたいことがある」といわれるようなケースでは、もはや、言っていることばはどうでもよくて、内容などは、枝葉にすぎないのです。

それが「不快だ、生意気だから態度改めろよ」ということなら、言われていることに反論したり、内容に対して論じても仕方ないのです。

 

一見、全く反対のようですが、恋人たちの長電話と同じです。

内容、コンテンツはどうでもよく、一体感を感じていればよいのですから。そこでは、メタなレベルでの共感が問われているのです。

そういう意味では、声は、ことばよりもずっとメタです。状況のなかで、どうこうするのではなく、状況そのものの設定を変えることが求められているのです。

傷つく

感受性を高めるのは、いろんな表現を自由にできるようになるためです。

ただ傷つきやすくなるだけでは何の意味もないのです。

表現のために過剰に感受性が高まると、傷つきやすくなります。

しかし、それは、必ずしも表現に結びつくとは限らず、ときにハイリスクとなります。

設定とイメージ

映画、演劇、ステージという枠があります。

そこに、私のことばでいうところのスタンス、つまり、設定が必要です。

この場合、フィクションとして行われていることであるという前提です。

 

歌で問われる感情表現は、日常のものでなく、ステージとして人に伝わるものとして問われます。

そのためには、日常で、最低限の実体験を積んでおくということは大切です。

しかし、もっと問われるのは、そこからのイメージを豊かに膨らませておくことでしょう。

振る舞いとオーラ

声に限りませんが、現場では専門に関する実力だけでなく、ことば遣い、マナー、振舞い、表情などの周辺の力もいるでしょう。

 

心身からの振る舞いに、人はオーラを感じ魅了されるのです。

知っていることに対してではありません。

余計なことをしゃべるほど野暮になるのです。

仕事力

現場で問われるのは、これまで生きてきた、学んできたことですが、

ものをいうのは、それら全てを忘れたところで残っていることです。

心身の疲労困憊でも働く頭や動く体です。

頭のよさではなく、頭の強さや地頭、知識や学んだ技術ではなく、知恵と体の動くこと、行動する力が問われるのです。声も同じです。

弟子と学び方

教えを頼んで聞き入れてもらえなければ、弟子にもなれず、弟子になっても成長できません。

その点で、スクールに入るよりも、噺家の師匠のように、頼んで弟子に取ってもらう方がその時点で、一歩も二歩も先を行っているのです。

 

師に自分の頼みをきかせることができるとしたら、そこはお金で買うのと、見込まれて雇われるほどの大きな違いがあるのです。

今の自分のお金、コネ、信用、才能(の可能性)、どれをどのように使うのかということです。

教師と師の違い☆

先生やトレーナー業として、時間を切り売りして、誰とでも会って、同じことを教えている人はたくさんいるでしょう。

教えたい人や教えるのがうまい人は、こちらが1なら3、2なら3、3でも3、10でも3、100でも3のような感じで与えるのです。

1や2を求める人が大多数なので、教育ビジネスは成り立つのです。

 

しかし、師や一流の人ほど、教えない、誰にでも教えられないということを知っています。

相手によって、教え方のブレは大きくなるのです。

相手の度量によって大きく変わるだけの度量をもつからです。

そういう人は、こちらが1なら1、100なら100、結果として与えます。

 

 

教え

宗教に出会って教えてもらったくらいでは、多くの人は使えないでしょう。

教えられないところに、大切なことが隠れています。

それは、教える人によるというのではなく、学ぶ人によります。

 

学ぶ人によって、教える人も変わるからです。

教え方や教えるものが変わるのです。

つまり、教える人が本気で教えてくれるように伝えられなければならないといってもよいでしょう。教えられないところを学ぶのです。

教えてもらったことだけでは足らないのです。

情報と使用☆

知らないことを知ろうとすると、誰かの教えを請うものです。

今は、自ら調べ学び始めることができます。

そのことを知っている人も探せます。

 

そして、次が肝心ですが、その人に教えてもらえるように頼みにいくことができるかということです。昔であれば、その一つは、弟子入りということでした。

 

今や、ネットで情報として知ったり、読んだら全て知ることができると思ってしまっています。そのことが、本当に深くは学べない大きな原因の一つです。

知らないことを知ったところで、それだけでは使えないものだからです。

使っている人に出会わないと、もっとも大切なことを本当に知ることはできません。

同じから格差へ

そこには、区別、たとえば、階層、ヒエラルキーが存在するのです。

すごく自由に振舞える一部の人と、全く自由を抑制される多くの人とが出てきます。

お金なども、その手段の一つでしょう。そして、いつの間にか、区別が差別となってしまうのです。

 

一流の技術者は、技術のパラダイムシフトがあっても、次の技術についていけます。

しかし、単一のことしかできないプログラマーは、プログラムが変わるとそこまでのキャリアが無になりかねません。そして職を失い、一気に転落します。

それもまた格差となっていきます。

区別と差別

出自や身分、性、年齢などというのは、「同じ」を強いる属性です。

それは同時に区別でもあります。だから差別になりやすいものです。

同じように、男らしく、女らしく、○○の社員らしく、○○家の子供らしく、といったふるまいを求められるのです。

 

日本人は、比較的、同じものを好み、同じようにしたいと思うように育てられてきました。同じものを着たり、同じところへ、同じ時に行くのに慣らされてきました。

誰でもいくつかの役割を属性としてもち、どこかに属して生きているのですから、おかしいことではありません。