世間という圧力は、そこで安穏としている分には、その人を守ってくれます。
しかし、同じことばで同じことを同じように行う毎日を抜けようとすると、途端に牙を剥いてくるのです。
それを同調圧力といいます。それは、あたかも絶対的な正義のように圧迫してきます。
ときに、誰でも、同じなのを嫌に思うときがあります。
その感覚は正しいのです。
他と同じというなら自分というものがない、いらない、別の人にいつでも置き換えられるからです。
それでは、自分が自分である意味がないと気づいたときです。
グローバル化されたITネットワーク社会では、世の中全体が、ゲームとなります。
多くの人は、その盤上で踊らされるのです。少数のゲームの作り手には、ずっと勝てないどころか、その存在さえ気づかずにゲームを売られて、搾取され続けるということです。
偶然のチャンスが多くなっているはずなのに、現実化しないのです。
それは必然のプログラムから出られないからです。
旅や道で知り合う人、本屋や図書館で見つける本の方が、学校の推薦図書よりもよい材料、あるいは、運命的な出会いとなることが少なくなかったはずです。
そのとき、そのタイミングで偶然に出会うことこそが必然ともいえたのです。
そうした出会いでの一目惚れとマッチングアプリでの何百人とのお見合いとの違いのようなものかもしれません。
何人かの仲間とだけ24時間、LINEをやっているようなことのよし悪しです。
十代くらいの若者でも、そこで世界がクローズしてしまうのは、決してよいことではないでしょう。そのために、他の人と知り合ったり、一人で過ごす時間さえ奪われてしまっているのに、本人は気づかないのです。
それがその人の全ての世界となっていくのです。
学校のクラスにしか知り合いがいないというのは、現代の子のおかれた悲惨な現状です。
それまで、少なくとも家族や親族、地域のコミュニティ、血縁、地縁の社会など、別社会があったのです。友達もいたのです。
他の人に出会う前に、身近に出会う何人かを自ら選ばなくとも与えられて拘束されていると、孤独感からその中だけで処してしまうものでしょう。
ITネットワーク社会の恐ろしさは、こちらが知らないうちに支配されていることです。
自分自身が選んでいるつもりで、システムの与えてくれる情報で選ばされているのです。
それがこれまでより巧妙になります。
反面、多くの情報や人に巡り会うチャンスを与えもするので、本当に使いこなせている人には、大きなメリットです。
これから学んでいこうとする人には、最初に求めた情報の周辺をどんどん限りなく情報として与えてくることになります。
そこにばかりに付き合っていると、自ずと偏り、洗脳されてしまうということです。
新しいとか未知の情報ばかりの紹介や浅い思いつきを披露するメディアとして使うことで終わりかねません。
それで何かを成したような勘違いを起こし、気づかないままになる人も多くなるでしょう。
私が知っている一流の人、あるいは、一皮むけたと思う人は、一見、価値のなさそうな分野について、専門家はだしのマニアックなものを1つ、とことん凝って深めて持っていることが多いです。
一流の業績をもつ学者に昆虫採集が趣味の人が多いなどというようなのも、その類いでしょう。
それなら、新種の発見など、独自な価値があることで、学問に近いのですが。専門外に一芸をもっている人が多いといえます。
2つ以上の世界が交わると、ハイブリッドな発想が生まれやすくなるのです。
深く掘るには、広さが必要です。特に、未知の分野では、他の一流に深められた分野に学んだことが、ものをいうのです。
案外と、評価されたものよりも、あまり知られていないものの方が、自分にはよい材料となることが多いのです。
立派と言われている人よりも、ろくでもない人の方が、よい材料となるということです。
立派な人の立派なところよりも、おかしなところが、よい材料となります。
しかし、おかしな人はおかしなところも立派なところも、よい材料となると思うのです。
こうして、学べるところを絞り込むとよいのです。
いろんな情報を集めて整理しただけのものと、そこからクリエイティブに生み出したものとの違いは、知識と知恵の違いです。
創作物を、作者と読者、創り手と受け手との共同作業としてみることもできます。受け手がクリエイティブなら情報、知識からでも大いに創造できます。
一方、いくらクリエイティブに取り組んでも、先人の残した材料なしには、大したものはできません。頭や身体に何が入っているのか、そのぶつけ合いからしか、一つ上のものは出てこないからです。
その一つ上のものは、他の人の作品の上ではなく、本人を一つ下に深めたところに出てきます。それがオリジナリティです。
日本という国では、他の国のすぐれたものを訳したり、まとめたりして、わかりやすく伝える人が重用されてきました。
そのため、実力がなおさら、わかりにくくなっています。翻訳文化をまだ抜け切っていないのです。
学校の先生も、教科書やその周辺の知識だけ伝える人は、AIに取って代わられるでしょう。
私が、ここを学校でなく、研究所にしたのは、研究なら、クリエイティブな感覚があると思ったからです。まねするのと創るのは、大きく違うわけです。
先生の言ったこと、あるいは、書いたことをボードから写して覚えて学ぶのにすぐれている人と、それを基に自分の考えやアイディアを出している人とは、受験生と起業家くらいの差があります。
本当は、後者には学者も入れたいのですが、日本の学者は、受験生から抜けていない人が多いのです。そこは、受け手と創り手といえるほど、真逆の違いです。
とはいえ、記録されたもの、映画やラジオドラマでも、私たちは感動できます。
そこは、創り手よりも受け手の問題もあるかもしれません。
しかし、虚構のものをリアルに感じさせるものが埋め込まれているとしたら、それはアートの力、ひいては、アーティストの力です。
最初にわかっていたり、みえていたり、計画しているわけではないのです。
イメージといっても、歌がみえることはありません。
それは、歌い出せば完璧に仕上がるという確信めいたものの力で進んでいきます。
そうでなければ、普通の歌い手のように、これまでのくり返しとなって、くり返しているものとして飽きられるからです。
同じようにくり返すのと、やってみたら同じになっているのとは天と地の差です。創ってしまったものを見せるのと、これから創っていくというもののリアルさの力の働きかけの違いです。