2023-11-01から1ヶ月間の記事一覧
発達障害は、大人の都合のようなものです。原因について触れられていないからです。まわりの環境や食生活を含めた日常生活の問題ということになるのでしょう。
特に問題なのは、現代になり人類全身体にはびこってきた依存心についてです。 例えば発達障害などというのは、状態を表したものに過ぎません。そこで現れる状態を、社会が許容していないことで、病気と判断されるわけです。
人間には毛がないから、お母さんが抱かないといけません。だからチンパンジーは顔を見る必要はないのです。 マザーリーズは、母親が子供がわかりやすいように話しているように思われていますが、母親が子供の真似をしているというところもあります。より高い…
重いものを持つときに、筋力をつけて持つのでなく、骨で持つということです。それは身体の使い方です。身体を扱うということで、ヴォイトレも同じです。そうでないと、身体を壊すわけです。よい声とは、よい音色とはどういうことなのかと考えていくのです。
音楽は、時間の中で動くので、その時間を意識しないと一緒に演奏することができません。 音楽は、スポーツと同じくらいに身体を酷使します。ですから脱力して演奏するようにしていかないと、効率が落ちます。よい意味で、力を抜いていく、しかし質は保つこと…
音楽は教養であり、たしなみとしても、とてもよいものです。 人としての礼儀をも守れるようになります。形ということをいわなくても、そういったものがあって、動いていくからです。
テレビの健康番組にもよく使われていますが、注目させて信頼させるための手段として、専門的な知識を誇示します。「今のままではよくない」と脅すことによって人を動かします。 不安や恐れを増長して、味方になってあげるようなことは、トレーナーにもいるよ…
ある意味、相手を緊張させて、うまくいかなくして、それを解いていって成果をあげる。 メンタルトレーニングによくあることですが、それがトレーニングでも使われていることがあるので、よく見ることです。効果があるから、受け取る人は、すごく信用するわけ…
何かをやるときに、恐怖や怒られてやるのでは、全く違います。それは、本物ではない偽物だからかもしれません。 人の不安を刺激し、「そのままだとよくない」というと、相手は動きます。 そういう場面をたくさん見てきました。緊張して萎縮させ、操るという…
スタジアムなどで多くの人が、同時に大きな声を上げると、元気になります。その歓声が聞きたくて、見に行く人も多いと思います。 集団が同じ方向に動くということは、危ないことでもありますが、人間の弱さがそれを求める場合もあると思います。
会話に入っていけない人も、ダンスや音楽には入りやすいものです。原始的なコミュニケーションだからです。かつて言語の前に声を出し合うことでコミュニケーションをとっていたわけです。それは、言葉をしゃべれない赤ん坊を見たらよくわかります。
音楽は会話と違い、音を重ねられます。言葉は同時にしゃべれませんが、音楽は重ねたりハーモニーを作ったりできるわけです。ダンスと同じです。 身体感覚が優先されているのです。内容や意味のやりとりの言語では限界があるわけです。
声や歌や音楽とわけて考えると、わかりにくいです。ですから、音楽家などというように独立させて考えない方がよいと思います。 私自身、この分野にいながら、物理学、生理学、医療などにも関わってきたからです。
無理なものに立ち向かうのではなく、誰でもできそうなものから入ってきます。お祭りなどは、そういった点で誰でも入れるのでとてもよい入口です。 得意なことをそれぞれが行えばいいわけです。
声を出すこと自体は物理現象です。空気振動を扱っているのです。それをコントロールして伝達させ機能させていくのです。 心とか感情といわれても、身体的物理的な動きになるわけです。
どこかの部分で役立つものは役立つし、誰かに役立つかというと役立っている場合もあろうからです。 役立ったと思い込んだ上の人が、それを継承して、やっているときには無駄だと思っていたことが、後になって何かしらの結果になった、そのように信じてしまう…
精神修行みたいなものが、戦中までの軍事訓練やその後の体育会系の組織で受け継がれてきました。モーレツ社員の会社などもそうであったでしょう。 そういう中で、非合理的な不条理な訓練などは、誰が何をもって認め、また改めるかというと難しいことです。
作品そのものも、自分がそれに足りてないというようなことが、声や歌の場合は、とてもわかりにくいのです。 でき上がった時点で、何かが足らないとか精神的に訴えかけてくるものがない、などといっても、どういうふうに手を入れていいのか、そのイマジネーシ…
何をもって成果というのかを考えてみてもなかなか難しいものです。というのはトレーニングの成果などというのは、普通であれば出てくるものです。そして、どこかで限界が来ます。 もっとうまい人と比べてみて、どううまくないのかと見るしかないからです。
日々のことをきちんとその発見と驚きをもって伝えるとなると、モチベーション維持でなかなか難しいわけです。 アーティストっていうのは、それをとことん貫く人でしょう。生活や経済的なことを犠牲にしているのか、あるいはパトロンみたいな保護者の下でとこ…
期間や量が定められてないものに対して、コツコツとルーティンを自分で繰り返し高いレベルに高めるのはなかなか大変です。 私もテーマが与えられ、その企画のもとに本を書くのは、慣れました。しかし、目的がなく書くのは苦手です。
状況や覚悟というのも、生活のためにやむなくそういう環境におかれて、仕事として身につけた場合が多かったと思います。そこから天才が出たとしてもそれは何万人に1人の確率だったことでしょう。
師から盗むのですから、個人差があり、学べる人はすごく学べるし、他の人はなんの効果が出ない場合もあるわけです。そんな博打のような修行に耐えられる人はなかなかいないでしょう。
住み込みのプロセスと個々の習得具合がよくわからないので、合理的に考えると受け取りにくいものとなります。24時間一緒にいて、一生それにかけるという状況が許されてない場合は、難しいのです。覚悟がいるわけです。
同じことを繰り返すとき、学ぶ意欲のある人は、無意味のままでいたくないのですから、飽きて辞めないのであれば、そこに何かしら意味を求めて、上達していくでしょう。マニュアルでの教え方よりもずっと高度な教えなのです。
稽古の時間だけ来て教えられたことを覚えて、その通りにできるようになる人とは、全く違う次元での見方や感覚が研ぎ澄まされていくことだと思います。 同じことを毎回、繰り返すのですから、よほど鈍くない限り、そこでの細かさや丁寧さが身についてくるので…
日本では、内弟子には教えないで、身の回りの世話をさせ、お金を払ってくる一般の人には教えるというような、伝統がありました。内弟子は、生活を共にして、師の動きになりきっていくのです。
考えてみると、全く違うものをやったときに、案外とうまくできて、これは今までの何かの経験が役に立ったと思えたこともあったのです。 どちらかというと人並みにもできず、自分の過去にそういったものに対する訓練が足らなかったと思うことが多かったのです…
いきなり動けなくなってしまったり頭が働かなくなってしまったり、身体が痛んだり記憶が飛んだり、つまりレベルダウンです。これまでにない感覚や成果が得られたというのは、よくない感覚や無能力に転ぶこともあるわけです。
これまでブレイクスルーというのを、私は、自分の限界をスッと通り過ぎて上昇するものと思っていました。しかしスルーですから、場合によってはダウンすることもあると思ったのです。