21.アーカイブ/研究所史/そのほか
私は、十名ほどのトレーナー全員とレッスン生のステージでの歌を評価し続けてきました。そこで、ポピュラー出身の生え抜きのトレーナーと、声楽家出身のヴォイストレーナーとの評価の違いに悩まされました。 声楽家は、アマチュアに対して、曲、つまり楽譜に…
研究所において、2000年までは、著名な演出家やプロデューサー、黒人のトレーナーまで加えていきました。グループレッスンの充実のための妥協でした。 そこから個別レッスンにして声を中心に回帰させました。その結果、全体で歌手は半分、後の半分は役者、声…
欧米の流行をまねてきた日本では、声や歌の完成に伴わない分を機材(ハード)、そしてヴィジュアルで補っていきました。 それこそが、今やヴィジュアル中心で世界に評価されるようになったJ-POPでの裏に隠れた真実です。音声だけで成立しないための演出面で…
あるとき、私は歌唱ではまだまだ表現できない人でも、2分くらいのモノトーク(日本語でのトーク)では、人に充分に伝えることができることに気づきました。そこは生活、実体験に結びついたことばがでてくるからです。そこでそのなかからの表現力をみることに…
ヴォーカル活動中のトレーナーには、自分の活動と他人のトレーニングの両立の大変さを伝えています。 私は人前で歌うことはトレーナーを選んだときにやめました。私のなかでは歌は決してやめたつもりはないのですが、ライブやコンサートという形では、退いた…
私がここでやっていたことは、少なくても自分レベルで基本ができている人が、千人くらい出てきたら、トップにノミネートされるというハイレベルでやっていました。そこから、試行錯誤で体制を改めつつ、いつも変えてきました。 今は個人レッスンでやっていま…
20年前は、演歌の人も多かったのです。当時は、ヴォイストレーナーは作曲家の人か、クラシックの人しかいませんでした。大体、作曲家が教えていました。音楽を分かっている人があまりいなかったかです。、作曲家が曲を作って歌い手に教え、デビューさせてい…
どこの分野でもあることでしょうが、どれだけ手間とお金がかかるか、想像してももらえないのです。どこの援助もなく、研究活動を続けるのは大変なことなのです。 私のやり方についていろいろ言う人もいます。しかし、その多くは、私自身の直接のレッスンを一…
ヴォイストレーニングの講座というのを、私もかなりのスクールやプロダクションを手伝ってから立ち上げました。ヴォイストレーナーやヴォーカルスクールはたくさんでてきました。ただ、そういうところでは大体1、2ヶ月で辞める人が大半です。 ここは、設立当…
ヴォイトレも日本中にたくさんのスクールや講座ができました。私は、いくつかの発足を手伝い、顧問もしてきました。あまりに安易で、やや平易するところもありましたが、お役に立てたらと思い残していると、日本の学校や教育というのを考えるよい機会となり…
私の場合は、もともと大手プロダクションにプロの養成を頼まれたところからスタートしているので、しかも音大にお世話になりつつ、音大出ではないので、異色かもしれません。日本ではヴォイストレーナーの草分けの大木先生と、日本音響技術専門学校に日本ヴ…
「○○さんは、アメリカにいったら、どこまでいけますか」とよく聞かれます。「無理でしょう」と。いってもわからないから、向こうのオーディション番組の録画を渡して、「ここの予選で勝てると思いますか」と伝えます。そういうのをみると、案外とすんなり、…
日本というのは、今や特殊なステージの作り方をしなければもたなくなりました。私がライブハウスやプロデュースに本腰で関わるのを辞めてしまった理由の一つです。 客の立場から見ていかなければいけないのは、やむをえないことですが、そこで本質が失われて…
年に300人も入れ替わり立ち代りがあるステージで、年3千~5千曲、全部の歌を、私は15年ほど毎月聞いていました。その中には才能のある人も、向こうでも通じるのに近いという人もいました。 向こうに行けば、基準ははっきりします。日本にいたら、そこをい…
かつては、ここに演歌の人も多かったのです。当時は、レッスンのトレーナーは作曲家の人か、クラシックの人しかいませんでした。大体、作曲家が教えていました。音楽を分かっている人があまりいないので、作曲家が自分で曲を作って歌い手に教え、デビューさ…