スポーツをしたり自転車に乗ったりすることは、大脳でなく小脳が司ると教えられました。頭でなく体で覚えると言われてきました。頭での思考や理解がないとはいえませんが、練習を重ねることで、誰もがあるところまではいきつくのです。反面、いくら考えたところで、体を動かしてくり返さない限り、何ら身につかないのです。
わかりやすいのは、できないことができたときです。スポーツも自転車もピアノを弾くのも、すべて、考えることが切れたときに体でできていたでしょう。つまり、考えが切れていたときに起こるのだから、考えてはだめなのです。
これは、できたあとに、我に返って気づくのです。頭が働くことでもわかります。考えや頭というのは、意識というようなことでしょうか。
ピアノでいうと、何も見ずに一曲丸ごとなら弾けるのに、途中で一か所躓くと、そこから先は弾けなくなる、そういうときに、最初からやり直せばまた弾けますが、間違ったところで考えたら指も動かなくなる。考えないなら指が動いてできるのに、考えるとできなくなってしまいます。それを忘れた翌日には弾けたりする。歌詞を忘れたときも似ています。ですから、禅では、頭を切る修行をするのです。