2023-05-01から1ヶ月間の記事一覧
現実は、必ずしも理屈通りはいかないものです。 安全そうに見えるようなところよりも危険そうに見えるところの方が事故は少ないものです。ハイウェイのカーブのようにわざと身体がリスクを感じるような形に設計することが、事故や災害を減らすために必要です…
スマホによって、心身がおかしくなり、ぶち切れやすくなるというのは、確かに一理あるでしょう。 視覚中心になると、どうしても五感のように身体からの情報処理というようなことが、うまくできなくなります。 視覚から入るのは情報=記号で、そこで切り取る…
他の人の考えが間違っているとか、自分が理解されない、誤解しているというようなことも、自分が考え出したことです。現実は、必ずしも、そうではないわけです。 理想を持つのはよいのですが、現実とのギャップに悩むがあまり、それが限度を超えては壊れてし…
自分がこうあるべきということで固めすぎてしまうと、それは、そのまま自己中心的な考えとなってしまいます。 競争に勝ち残ってきたような人たちは、相手に譲渡していたのでは負けてしまうので、自分の考えを諦められないし、執着する傾向が強いわけです。
周囲が気をつかう人は、本人が思うようには扱ってもらえなくなります。 相手から学び、自分を改めていくという学習の根本的な考え方ができていないのです。 自分の行動範囲の中では、気づけないので、そこに閉じこもっているままなのは、問題です。
周りから厄介な存在と思われたり、人間関係がうまくいっていないところは、日常生活や仕事では、それなりに気づくものです。 しかし、自分がこだわることでは、なかなか気づかないのです。 自分が間違っていないと思いたいし、間違っていても認めようとはし…
自分に自信がある人、プライドの高い人は、矛盾が出てくるたびに防御するのです。 頭の中で考えを巡らして、自分の考えの中で理解しようとします。 そこにこだわり出られなくなっている状況に気づかないのです。
きちんした考え方で、自分の可能性を捉えていきたいものです。 それは、本当に必要とする人にしか得られないということになります。 それをもって、才能、能力ともいってもよいかと思うのです。
器用な人は、早くすぐに、ちょいと上達してしまうことで限界となります。 それが自分の才能や能力の限界だと思って、多くの人は、満足するか、諦めてしまうのです。それは、本当の意味での才能や能力の限界ではなく、本人の考え方での限界、自分の可能性を信…
認識のギャップを超えるためには、かなりの理解やトレーニングが必要です。 そこまで求めない、そういうこと自体が想像できない人も増えているようです。
トレーナーも客商売となると、言われた問題のところでお答えします。 それなりの対処法を述べて、信頼をしてもらうようにします。 信頼関係を優先するので、そうせざるをえないのです。
ある問題に困っていらっしゃる人の多くは、その問題の前提のところまで遡らないものです。そういう話をすると理解してもらえないことも少なくありません。 本当に解決するのなら、多くのことは、根本に戻らなければいけないのです。
「ヴォイストレーニング」も、あいまいなまま、人によって、この用語の使い方が違うことが多くみられるのです。 議論の前に前提となることばの定義が定まらないところで、問題以前の問題になっているのが気づかれていないのです。
あいまいさをなくすためには、ことばをきちんと定義して使うことですが、定義というのは、使うもの同士に共有されていなければ成り立ちません。 そこで、そういう用語集をきちんと作っておくことです。 それに従って使っているかどうかが問われるのです。 ま…
差別用語の問題が難しいのは、時代によって基準が変わるからです。私も、バカチョンカメラなどということばを、学生の頃まで使っていました、チョンが差別用語は知ってはいたのですが、結びつけて考えられなかったのです。 知らないから差別の意図はないとい…
音楽の中では、そこでの音がことばで伝えることを邪魔してしまうときが多いのです。 そこで、私も指揮者のような身振りや手話に学んだことがあります。 車であればクラクションを鳴らすのは、日本ではタブーなので、ライトで伝えることがあります。かつて、…
電子メールのやり取りなどで絵文字などが使われてきたのは、そのニュアンスを少しでも伝えようということです。特に、話ではわかりにくい日本語などで、日本人の得意とするところです。 日本人は、もともと表情、仕草などパフォーマンスでの伝達においては、…
Zoomなどオンラインのコミュニケーションでは、相手のことがわかりにくくなる場合と、逆に1対多の場合では、表情が見えてよくわかる場合とがあるようです。 全身がみえるか表情がみえるかでは、舞台と映像の違いと似ています。
ノンバーバルでのメッセージは、マスクをすると顔の下半分の表情が見えなくなるので、かなり伝わりにくくなります。 耳が聞こえにくくて、読唇術のように口の形で読んでいた人は、ほとんど不可能になります。 また表情からのニュアンスが伝わりにくくなりま…
コロナ禍が、「この中」と聞こえるのは、ロとノの違いだけで、これまで、日常で「この中」がよく使われていたからです。 似たような発音や発声は、聞き間違えやすいので気をつけなければなりません。 ワープロでの漢字変換においては、伝言ゲームなどでも考…
音声入力では、日本語は、不利な言語といえます。 聞き違いのことをモンデグリーンといいます。これはアメリカの作家のシルビアライトさんが、子供の頃にライド ヒム オン ザ グリーンをレディーモンデグリーンと思い込んでいたことから使われ始めたそうです…
薬の説明でも金融商品でも、リスクについては、読めるか読めないかくらい小さく書いてあるので、ほとんどの人は読みません。そこに囚われると売れなくなることを恐れてのことです。あまり不安を煽りたくないのでしょう。 説明するときには、大体、プラス面を…
人間関係のうまくいかない原因のいくつかもまた、意味の取り違いからきていると思われます。そういう意味はないのに、全く違う意味にとられてしまい、それが原因でうまくいかなかったということは、気づかないだけで相当に多いと思われます。
1977年KLMオランダ航空機とアメリカン航空機が滑走路で衝突し、大惨事となりました。そのときは、管制官が「オーケー」ということばを使いました。 「オーケー」と言うのでは、何がオーケーかわかりにくいので、通常は、禁止されているそうです。この時も、…
ミュージカルなどの現場に行くと、出演者に中国人や韓国人が多くなっています。オペラにおいても同じです。 欧米で日本人の歌手をみるのは稀です。二期会で3,000人近く、藤原歌劇団も3,000人ぐらいいます。それでも、欧米での活躍は、韓国人や中国人にまで及…
声は聞けないので、いろんな評論を目にすることがありますが、恐竜の声を想像して作り出すようなことは、欺瞞、といって悪ければ、想像力の限界を感じます。 そこにこだわるつもりはありません。頭声という使い方ひとつでも、人によって違うので、なかなか難…
クラシックでは、19世紀の初頭までは、テノールでさえ2点イのAのところまででした。その上は頭声、ファルセットを使っていました。やわらかい響きを好んでいたのです。それが、19世紀からどんどん高くなっていきました。ポップスも1970年以降に、似た動きと…
日本の歌における音楽とことばとの両立は、作曲家、作詞家、アレンジャー、そして、演奏家に問われるときがあります。歌手に関しては、その2つの要素を歌唱によって大きく動かすことができるわけです。 ある意味、何とでもなるということになります。歌手に…
ベルカントは、ただお腹から声を出すこと、「よい声を出すこと」で捉えていけばよいでしょう。どれが正しいとか間違っているかということ自体の議論が無駄なのは、こういったものについてです。 その用語によって、納得させたかったり、商売をしたかったり、…
ベルカントについては、とても多く、そういう人と触れてきたし、いろいろに使っているのを聞いてきました。その示すところは、それぞれに異なっています。 訳すると「よい声」ということです。歴史的には1840年頃までの歌唱様式となります。しかし、それは誰…