2023-01-01から1ヶ月間の記事一覧
褒めたり褒められたりしないといられない体質が、SNSの「いいね」のつけ合いで、さらに普及してしまいました。 それは、一見、相手の存在ややっていることを認めることばですが、場合によっては「ありがとう」の方がよいでしょう。
愛想、愛嬌の欠落を感じることも多くなりました。 そうしたサービス精神はホテルや旅館に見習うとよいでしょう。「どうかしましたか」と声をかけるとよいでしょう。 マナーは、若い人たちの方ができているように思えることもあるのに、今の大人の悪影響を被…
「感謝を伝える」というようなことまでいわなくても、「ありがとう」で、その多くは、報われます。「ありがとうございます」ではなく、「ありがとう」なら、客としての立場も保てるので、妥協案としてもおすすめします。
日本人のおもてなしとしてCS(顧客満足度)が高まるのはよいのですが、片や、それに甘えるというか、客となったときの態度は、かなり粗暴な人も少なくありません。 いや、それゆえ、CSが高まったともいえるのです。
痛みや死を目前にしたときにしか学べないものが、確かにあるのです。 日本の神様は、人間が謝るところから始まっています。 日本の八百万(やおよろず)は、多種多様の存在への畏怖心です。 それは、芸能のパワーです。
野生の力、原初のパワーは、リスキーな状態でないと蘇ってこないものです。 根本的な生きる力が失われてきているのは、命の大切さが、安全、安心第一に置き換えられているからでしょうか。
コアトレは、インナーマッスルを鍛えて外部から固めません。 ヴォイトレは、マッスルトレとは違い、ある程度、すでに日常のなかに含まれているといえます。チューニング、モニタリングを心身について行うことです。
均等に負担を支えるとしたら、一か所の筋肉だけが強化されません。 ヴォイストレーニングを、トレーニングとして早急の強化を考えるときも、後日のバランス調整まで考えておく必要があります。
かつて日本人は、膝を立てて足をまっすぐに伸ばしては歩けませんでした。 これは、文化的な風習というものです。田畑や山河での育ちの影響です。 骨盤は、まっすぐでなく、後傾しています。それもまた、継承されたものですが、場合によっては、改める必要が…
元より、日本人は、歌一曲を聞く体力さえ、早くに失ったように思います。 が、パワーをなくしたアートは滅びます。欲や気力の衰えでもあるのでしょう。
繊細さ、ていねいさが表立って、そこだけに囚われるようになりました。 とにかく声が浅く薄いのです。 呼吸も浅く、呼吸筋、つまり、身体を使っていないのです。 これでは、生き物として弱く、野性味がなく、力強さもないのです。
歌唱では、フレーズを縦でつなげる力が弱ってきています。 どこかで学んだ人ほど音を点でとる、音符でとる、楽譜のように正しく、横に長くつなげます。 本当は、流れのなかでメリハリを付けたり音をおかないと伝わらなのです。 最大の悪因は、カラオケのリヴ…
私は、トレーナーとして、あるいはそれを統括する者として、場を構えていればよいと思っています。 相手が行うことが優先ですから、でしゃばりません。その上でクライアントもトレーナーも区別なく、学び合い、表現し合っていけばよいと思うのです。 その方…
方向修正は、本番中でも生じます。 まして、練習となると、それのオンパレードです。 人前で評価を得ようとしてみせるのは、オーディションと同じで、アマチュアかプロの駆けだしのレベルです。 プロなら、客も共演者も 味方にします。オーディションでの審…
声に芯があるとは、血が通っているということです。 楽器や道具を抱いて寝るほど大切にしている人がいます。 喉を大切にするのは当然ですが、生体ですから、常に血を通わせていなくてはならないのです。
声先とは、声の描く先です。発声では、私は、声の線と言っています。 歌唱では、それが何を描くかの全体を時空でみなくてはなりません。 習字でいうと、字形、いや、そのインパクトでしょうか。そのために、発声もまた、筆先がバラけてはだめなのです。とこ…
私が、オペラの歌い手に学べたのは、声が主で自分が従だということです。 神の声を自らの身体を媒体にして受け、出していくという感覚です。 それは、一流のタップダンサーの足が命を得て、独自の生き物になって動くようなものです。つまり、主に人間が従と…
芸は、全体や構成を細かくみて写し取っていないと通じません。 状況を汲んでの再現が必要です。 書でいうと、文字ではなく、書道家の動き全体をみているのかということです。
すぐにコピーできるように追い込まれないと、耳も体も心も声も、鋭くは働かないものです。そういうことでは、実践的な場として、レッスンがそのようにあることは、とても大切です。 なんせ、人前で1回だけみせる芸でしたら、いつも出たとこ勝負です。そこに…
基本がわからないうちは、とにかく実践をやりたがるものです。 しかし、基本がわかってくると、それなしには実践もできないことがわかるのです。
昔は、プロである師のいる場でしか、学ぶ材料も世に問う場もなかったので、師につきました。師に近いことのできることが、客に認められ、プロになる唯一のプロセスでした。 そこでの客とは、師の客、関係者だったのですから、そっくりまねるのを目的にするの…
古典芸、伝統音楽などでは、師匠のを聞く、一緒にやる、そして一人でやるという三つが稽古です。 本来は録音などに頼らずに、耳と体へ直接、の叩き込んでいき、力を磨くのです。 すると、自ずと聞くことに時間がかけることになります。 ダメなものは、何回や…
出だしかサビの1フレーズで、4~8秒で、大体、声の実力というのはわかります。 あとは、どこかに取り柄や、活かせる可能性のあるところがないかを探して1コーラスを聞いているようなものです。
一人ひとりが違うことと違うようにつくることとは、全く対極のことです。 しぜんに違うのだから、生まれたまま、日常のままでよいと思われることもありますが、それも違います。しぜんが与えた潜在能力を最大限に発揮する、ということであり、そのままではな…
アートは、総合的なものなので、ふしぜん極まりなく病的な声でも、人を感動させたり、プロと認められたりもします。だからややこしいのです。
発声をしているだけで、声はパワフルに魅力的になっていくものです。 なのに、そういう声が出なくなってしまっているとしたら、ふしぜん極まりないのを個性ある声と思い込んでいるからでは、ないでしょうか。それは、一つの病といえます。
発声は、一人で歌っているだけなら、決してややこしく複雑におかしくはならないものです。大体は、一方向へシンプルに偏っていきます。この方が、まだ、方向修正も指導もしやすいので、トレーナーは、そうした初心者を好むのです。
声の障害をわざわざトレーナーとつくっていらっしゃるのでは、と思われる人も多くなりました。変なテクニックを教わって、発声が複雑になっていくのです。 こうした障害をくせとも言います。
練習というのも、健康法と同じで、何でもよいからその通りに行って、うまくいったと安心し安定すればよいわけです。 ただ、何でもよくてやったことでよくなったのでは、そこまでです。 大半は、またうまくいかなくなったり、少しうまくいったところから頭打…
やり始めは、超調子のよいと思えるときが出てくるものです。 それを感知すること、再現することをめざすのです。 そこでステップを何段か飛ばして上達できるのです。 ただ、調子がよすぎてわからない、不安定で不安になることもあるし、二度と再現できないこ…