日本語を総覧してみると、万葉の頃は、歌垣として、情愛の呼びかけでした。歌垣は、言霊という呪術的な力の働きが加わるとはいえ、今のコンパのようなものです。その後、お上の勅選和歌集では、選者が記述して記録していきました。
紀貫之の土佐日記「男もすなる日記というものを…」というカバちゃんスタイル、女装や女体、いや、女性体、女性語で書かれた「かな」文字です。
話すときのことばと書くときのことばは、ずっと区別されていたのです。和語(「よみ」)と漢語(「こゑ」)と呼ばれていました。
公家、武士、僧侶や女房(女性)、幼児と、使う人によって、ことばは異なり、ややこしかったのです。しかも、中央と地方とで違います。
このあたりは世界の国々と同じく、村一町―市―県や州―国などという全国統一のプロセスで変わっていきました。