夢実現・目標達成のための考え方と心身声のトレーニング(旧:ヴォイストレーナーの選び方)

声、発声、聞くこと、ヴォイストレーニングに関心のある人に( 1本版は、https://infobvt.wordpress.com/ をご利用ください。)

胸声の必要性

私の読者には、私が胸声だけを勧めていると、誤解している人が少なくありません。それにお答えしておきます。

 当時も今も、歌は高い方へ音域をとるので、カラオケであれ、何であれ、自然と高く響かせ届かせようとします。それがうまくいかないから、そのコツを教えるのが発声、今はヴォイトレのように思われています。

 それに輪をかけて、声楽家も、ソプラノやテノールの先生ばかりの日本ですから、頭声の指導ばかりです。

海外の人や、歌手としての才能があって歌う人には、胸声の条件が、ある程度、備わっていたから、そこはスルーされました。備わっているものには、気づかないものです。似たタイプはうまくなり、そうでないタイプには、うまくいきません。頭声ばかりに偏る日本の問題は、一部の声楽家によって反駁されています。

 私は、誰もが高音から入ることに反対しません。そかし、行き詰ったなら、できているつもりの胸声を掘り下げる必要があると指摘しています(胸声という発声や胸声共鳴という共鳴があるのではないので、念のため)。

 

バランスと支え

バランスは状態であり、支えは条件です。

 低いドから高いドまでの1オクターブ、その下にソ、その上にソとして、歌唱の2オクターブ(男性)を考えます。その上のドがハイCです。女性は、それを3度下げて、ミ(低)ーミ(中)ーミ(高)の域にとるとよいでしょう。

男性(低) ソードーソードーソ(高)

女性(低) ミーラーミーラーミ(高)

これを高低(上下)で便宜上2分してみます。真ん中のソ(ミ)で分けます。それぞれに、高い線と低い線を、並行して引いてみると、高い線(上線)は細く、低い線(下線)は、太い音色です。その上下の間で、いろんな音色がとれるということです。

a.頭声―頭声共鳴(共振)―細

b.胸声―胸声共鳴(共振)―太

と、これを2つに分けるのでなく、a-bを両極として、この間に、いろんな声のとり方があると考えるのです。

 

胸のハミング

私は、日常の声、胸中の共振感覚をもとにした発声、声の芯、声のポジションなどについては、高い声が楽に出せてしまうタイプの人は、こだわらなくてよいし、メニュから、飛ばしてもよいとしました。

 これは日本の歌手やトレーナーに、特にそのタイプが多いからです。高校生くらいから、高いところがうまく出て(そのままで身にはつかなかったので)、歌手にならずにトレーナーやカラオケの先生になってしまった、というタイプです。これは、喉、声帯、呼吸が高声に、うまく対応してしまいすぎたのです。

 

 落語家や俳優にも、このタイプはいます。見かけよりもずっと高い声を使う人です。おネエ系の人の中にもいます。声が不自然なのでわかります。持っている資質もありますが、育った環境や性格で、声を高めに使っていた人に多いです。こういうタイプは、太い声、低い声に弱いです。

 

失われた大人の声

大正から昭和にかけ、日本には大人の文化があり、大人っぽく、わからないものに憧れました。そういうものが挫折しました。“かわいい”でくくられるロリータ文化は、アニメ、漫画、ゲームと、世界に発信できるクールジャパン、日本文化となりました。私たちは、日本人は大人になりきれず、ピーターパンの理想国家を築いたのかもしれません。世界の動乱の中で、日本は安穏として、ガラパゴスムーミン谷だったのでしょうか。

 

a.本人の声―体、日本人

b.表現の声―時代、日本

この2つについては、私の根本にある問題意識です。これからも至るところに出てくると思います。

 

日本と時代の流れ

・日本人の作家、詩人は、大衆の前で朗読しない。

・ホテル、レストランのロビーやラウンジに歌い手がいない。

・全世代に共通する歌がなくなった。ラジオ、テレビからネットへ移った。

昭和の頃はクラブ歌手、流しの歌手もいました。

 

 

 歌の地位の凋落は、世界的な傾向ですが、日本では、光GENJIレコード大賞をとったあたりがターニングポイントとみています。世界でも、マドンナ、マイケル・ジャクソンの頃を思えば、現在の歌手の社会的な影響力は、限定的です。とはいえ、世界各国とも、アーティストの歌唱や表現レベル、声の力は、それほど、落ちていません。その中で日本だけは、フルダウンです。ヴォーカロイドに将来を委ねるのでしょうか。

 私が少年の頃は、今ほど手軽に、面白く遊べるものがなかったから、スポーツや歌を楽しんだのかもしれません。野球や相撲やプロレスも昭和のものだったのかもしれません。演劇も、不条理劇やアングラなど難しいもの、向こうから説いてきたり、問いかけてくるものは姿を消しました。誰でも楽しめるミュージカルなど、エンターテイメントに主流が移りました。日本では、ミュージカルでさえ視覚効果が第一で、音や歌の扱いがぞんざいです。

 誰もが背伸びすることに憧れももたなくなり、等身大のコミュニケーションに満足しているようです。宝塚から劇団四季AKB48という流れが、私には、虚ろに見えます。

 

タフでない日本人の声

 日本人の喉と声の可能性を、私は、英語の発音の専門家と本を書くほど比較して考えてきました。日本人の背の低さやモンゴロイド系の平坦な顔が、欧米人に引けをとって同じようにできないと言う人もいました。体格に差がありますが、国際的に活躍している欧米以外の多くの人をみると、これらはもう条件とはならないと思います。

 むしろ、近頃の日本人のダイエット好き、小顔で、首もひょろりとして、体力、精神力(ハングリー精神)も衰えていっている方が気になります。声は心身のタフさが支えるものだからです。

心身の問題は、大きくなった日本人に、大きな弱点として突き付けられているように思うのです。表現からの必要性も、声そのものとして向かなくなっているようです。プロとお客、アーティストと一般と、両面とも必要を感じなくなっているということです。その2つは声が弱化する大きな要因なりつつあります。

頭より体~階段で足が痛む?

 整体などで日頃のストレスをとっている人はそれでいいと思います。プロのスポーツ選手やアスリートなら、専門のフィジカルトレーナーをつけていますね。声はメンタルとフィジカルがとても関係するものです。そこで取り組む姿勢はよいのです。しかし、常に見直すことです。

 ヴォイトレよりも体づくりや柔軟で解決する問題は少なくありません。ジョギングや柔軟、ヘッドスパやマッサージだけでも声がよくなる人がたくさんいます。そこをヴォイストレーナーがメインにするようになったのが、今のヴォイトレ市場と私はみています。

 理論、理屈で喉にせまるとよくない結果となります。「喉で声を出すな」という反理論が、広く使われていることからも明らかです。知るととらわれてしまうのが人間です。なかでも、そういうメンタリティを持つ人です。

 本の読者が来ますが、

「レッスンでは本のことは忘れてください」

「頭をからっぽにしてください」

「年に何回か、頭をまとめたければ、そのときに読み返してください」

 というようにアドバイスします。

 いつも自問してみてください。毎日10分も歩いていないのに、階段を上がって足が痛かったから骨や筋肉がおかしいとか、歩き方が変だとか考えないでしょう。マッサージしようとか、医者や整体に行こうというまえに、少しずつ無理なく量を増やしていくことです。毎日、しっかりと自分の足で歩くことです。

理論は理論

 パワフルな声になりたいのとハードにやるのは別です。目的を高くポジティブにとる方が、効果が上がります。

 そこは眺めがいいのです。世界を目指せば日本では通用します。結果がでればいいのです。

 理論派のトレーナーは、皆さんの弱点が喉であり、そこを克服しなくてはならないようなことを言います。そういうことを言われても忘れたらよいのですが、そういうところに行く人ほど、そういうことを気にするメンタリティを持っているのでまずいのです。

 ヴォーカリストになるために、まず医者に行くのは、天才か、的外れの人です。いろんなチャレンジをするなかで喉の健康診断のために医者に行くのは賛成しますが、少しトレーニングしても喉がよくないとすぐに医者やトレーナーに依存してしまうのは感心しません。「自分の喉は、人と違って弱い、よくない、変わっている、だから直さなくてはいけない」などと思いつめないようにしましょう。

喉の弱さとメンタリティの問題

 研究所での当初のトレーニングは、プロに対しては調整や共鳴、アマチュアに対しては作品のフレーズコピーから行いました。後者は、本人の資質と勘の鋭さが成否を分けます。マニュアル漬けのレッスンやトレーニングとは大違いです。

 武術が武道となり、健康法となるのはよいことです。その健康法で実戦を戦えると思っているようなのが、今の声のレッスン市場のように思われてなりません。ピアノの演奏中、ピアノのタッチにばかり気がいっていたり、指と鍵盤との角度ばかりを気にしたりしているようなものでしょう。

 私の研究所は、声の病気のリハビリの人も受け入れています。声の仕組みを知り、自分の喉の状態を気にするようにアドバイスします。しかし、それはトレーニングのためで、頭の中ばかりが拡大していくのはよくありません。ヴォイトレに関わることで、メリット以上にデメリットをもたらしていることはないでしょうか。

 私やここのトレーナーの喉は鍛えられた喉です。形成のプロセスや自覚はそれぞれに違いますが、普通の人の何倍もの声を集中して使ってきたのです。

 それを、すぐにそうならないからと、医者やトレーナーを巡っているような人が増えました。そのメンタリティの問題を、医者はともかく、助長しているトレーナーが多くなったようで気になります。

 

私の声の歴史

 私が今の声をメインにしたのは20代後半くらいからです。自分でも歌の声から日常の声に切り替わったと感じました。主に仕事上の理由で、体からの声を使わざるをえなくなったのです。1日8時間近く、ぶっつづけで声を出す毎日が、私の声を変えたというよりも、その声を選んだのです。喉をつぶしたくなければ、体で支えないと、日夜連続した発声の必要性に耐えられないからです。

 こうして選ばれる声は、もっともよい声とは限りません。もっとも強い声、いえ、耐久性のある声です。非日常が日常化したため、高度の使用上の必然性から声が変わっていくのです。それまでトレーニングで体全体でなんとかコントロールしていた声が、いつも話す声にシフトしたのです。

 喉は全く疲れないが、体が疲れる。しかし、体が疲れても、喉に負担がこないで、その分、支えが強くなるという、よい意味で身につくローテーションに入ったのです。

 これを一歩間違うと、こわしては休めて直すという負の循環になります。それは、大声トレーニングやハードなトレーニングで声を手に入れていた昔の歌手や役者と、かなり似たプロセスだと思います。

 

声を決める要因とまね

声を決める要因があります。ここでは、声を出す体は楽器であるとして、体を中心にみていきます。それぞれに組み合わさっているので、声を決める要因、これで全て決まるわけではありません。

  1. 身長、体重、胸郭、頭部―頭蓋骨、

  首の長さ、太さ―喉頭の大きさ、声帯(筋)、

  輸状甲状筋、輸状被裂筋

  1. 表情筋、呼吸に関する筋肉

3.それらの使い方

 

 以前から、身長の高い人、首回りの太い人は低い声、という説がありました。男女の喉頭(のど仏)の違いで、声帯の長さの差が出て、ほぼ1オクターブの差となります。体格による声の違いも無視できません。大男でハイトーンの名人もいれば、小さい女性でヘヴィな声を出す人もいるので、断定することはできません。

 育ちでの発達の違いや、言語や文化圏の違いもあります。発声には本人の性格や、気質、心情、感情、表現の方向性まで、複雑にからみあっています。

 他人の持つものに憧れても、自分の持つものを伸ばしなさい。そのために他人を知る、他人に学ぶことです。しかし他人のまねが目的になると違ってきます。相手が優れているほどに、早く自分の限界が来るのです。あなたの見本、憧れる声がトレーナーの声と似ている場合のメリット、デメリットは省きます。

 一流のアーティストでも、あまりまねない方がよいタイプもいます。人間離れした喉を持つ人も多いだけに、そこは、よく考えないとなりません。サッチモルイ・アームストロング)など、白人がまねをしても壊したアーティストは、日本人に勧めるわけにはいきません。この研究所へもヘヴィな声やハスキーな声、たとえば、ロック以外にフラメンコなどを求めにくる人もいますが、まねから入るのは禁物です。

 

ブレスヴォイストレーニングのメリットとデメリット

 レベルⅠ~Ⅲを捉えてこそ、ブレスヴォイストレーニングが、世界の対応のトレーニングといえるでしょう。世界に通用するようになりたいという人がきます。それでまた、いろんな面で、ブレスヴォイストレーニングの可能性と限界を見ることになります。本人や私の条件をも省みることになるからです。

 「トレーナーの選び方」で述べた、他のトレーニングやトレーナーのことを、私自身にも当てはめて、そのよし悪しを考えるのです。

トレーナーの条件やトレーニングの基本については、「読むだけで、声と歌が見違えるほどよくなる本」(音楽之友社)を参考にしてください。私自身のことはあまり述べていませんが、この本の至るところに、私の声の背景があります。

 

 手本かサンプルかわかりませんが、一声でみせる見本、鍛えられた声の一つの叩き台としての、私のやサンプルの声を使います。30年にわたるトレーニングで、これに並ぶ、優れた人の声も、同じレベルの声として出します。

 声としては異なっても、音楽を司る表現力やコントロール力のある声を、歌唱、声として加えます。

 私が歌手の声として参考にしただけでなく、プロ歌手のプロの声として「レッスン曲史」などで紹介している声色、役者声は共通している何かがあります。トレーナーや声楽家にももっている人がいます。

 何をもってプロの声とするかの議論は不毛です。それぞれの分野で活躍した、プロの人の持つ声です。

 いつも私はこれからトレーニングをしていく人に、トレーナーとしてのスタンスでいいます。それぞれに違う声がありますから、与えられた声を、どう目一杯使うかに技術もあるのです。私や私の示すアーティストたちに、あなたの声が似ているのかどうかは考えなくてもよいのです。