夢実現・目標達成のための考え方と心身声のトレーニング(旧:ヴォイストレーナーの選び方)

声、発声、聞くこと、ヴォイストレーニングに関心のある人に( 1本版は、https://infobvt.wordpress.com/ をご利用ください。)

形はない、自立心

私のレッスンやブレスヴォイストレーニングの方法、メニュというのは、他のトレーナーのように、特別に決まった形で存在するようなものではありません。相手に応じて変化します。材料は何でもかまいません。どの母音、子音でも、どのスケールでもかまいません。あなたの歌の一フレーズ、セリフの一言、何でもいいのです。それだけで5年、10年と育成し保つ基準があります。

 できないときには、アプローチの技術として考え、実のところ、すぐれた一流のアーティストの声を後追いしていくのです。そういう感覚や心身をめざし、発声の原理の獲得を目的にするのです。

アーティストの日常を、まだ非日常にしている私たちが拡大して取り込み、日常化していくということです。その考え方が、ブレスヴォイストレーニングであり、私のレッスンです。

 

レベルⅠ 基礎

レベルⅡ 結びつき

レベルⅢ 表現

 

 一つのやり方、方法、メニュ、プロセスでなく、多様な方法、メニュ、プロセスがあるのが、豊かな世界だと、私は考えます。問題がどんどんでてくるからこそ、克服する力がつくのです。

 その前に、どのやり方が正しいとか、自分に合う方法や合うトレーナーは誰かと、すぐに決めたがります。それ以外にも何か問題があると、すぐに解決しようとします。そのために少々うまくなるだけで、育たないのだと思います。問題は成長する限り続いていくのです。

 本人もトレーナーも、早くうまくなるのを目指しているとそうなるのは当たり前です。もっと根本的、本質的、その人の生活や生き方から、出てくるものをみるのです。凝視することです。

 私には、日本の音楽や歌が、戦後アメリカに守られて、自立も覚悟もない、自分の意見もつくれない、言えない、出せない、リスクを引き受けられない、今の日本人のありようとダブって見えるのです。

 「自分の歌を歌おう」これは私の出した本のタイトルです。未だ何も変わっていないように思います。

 

感覚と感性と自立

 若い人に全力で全身から声を出す経験を与えないことが、日本の声力の低下をもたらしています。歌唱やセリフ、いや、発声の前に、声というものの、もっともベーシックなところでの、トレーニングを行う必要を、私は提示しています。それが必要な理由は、オリジナルなフレーズとして使うためです。それは自由な声の条件として必要です。そこで、外国人ヴォーカルのフレーズ処理からメニュの材料をストレートに与えてきたのです。イメージでは慣れてきます。声がイメージに伴わないところでねばるのです。

 

 声の器づくりとして、強い息や大きな声、深い声などを模倣して、急にたくさんやったり、休みを入れずにやったりすると、声が潰れるリスクが高まります。これは、トレーニングとか、メニュとか方法以前に、当たり前のことです。発声の原理にあまりに反することをはやめましょう。

 感覚的に心身をトレーニングするには、今の自分の発声の限度の把握が欠かせません。いわゆる常識的な判断のことです。こんなことまで言わなくてはいけないことが、今の日本での、声のレベルの低下を示しています。

 かつては、無謀と思われる悪環境での大声トレーニングでさえ、トレーナーや受講生は鋭い感性で、喉を守っていたと思われます。なかには無神経なまま、痛めた人もいるでしょうが、タフな人も多かったのです。そうして覚えていったのです。

感覚、感性は鋭くあるべきです。ハードな条件を課して、得ていくことです。

基礎の基礎

 理論や理屈は、中途半端に持つと、却って害になります。アーティストやトレーナーのつくった教則本はありますが、私のように、あらゆるケースを想定、反証、チェック、フィードバックして、直し続けている人はいないでしょう。全ては仮説、試行錯誤で、私としても、完成はないと思っています。きちんとやらないで成果を云々したがる風潮は困ったものです。

 「これが正解」と示されても、それはその人のトレーニングや自分の周りで適用したサンプルにすぎません。

 一流の声楽家は、生涯にわたり、自分を研究し、発声も練習方法も変化させつづけているのです。スポーツ選手でさえ、たびたびフォームを変えるのです。

 私の考え方や理論も、変わっていくと思います。でも感性や本質をみるところではあまり変わらないでしょう。そういうものは、その人が20年、30年とやり続けて何を残していくかです。長くみていくしかありません。

 研究所は、今の時点でこれまでの研究所史上、トレーニングもトレーナーも一番充実しています。いらっしゃるアーティストもいろいろです。紹介をはじめ、異分野の人がたくさんいらっしゃっています。対象の広がりに追いつきません。だからこそ、研究所です。いつも大切となるのは、応用で問われる基礎の力なのです。

芯のある声

 一流の歌手は、声に表現力をもっています。それには表現、イメージのレベルを上げなくてはなりません。これは声の力とともに上がってくるのが望ましいのですが、クラシックならともかく、今のポップス歌手はそれを待てずに先に先にといってしまうのです。

 鍛えて磨いた声、その共鳴、輝きを作品に、全身(全霊)でそのまま使おうとするのは、オペラ歌手です。ポップス歌手や俳優は何でもありです。しかし、声として共通する、表現の核、中心をつかんでいくのが、本当のヴォイストレーニングと考えています。そういう核となる声、中心の声を、「芯のある声」ということばで表しました。これはジャンルを選ばず、全身全霊で表現し切れる声です。

 今の私の個人レッスンで発声の判断は、どこのトレーナーよりも厳しいです。昔は、本人がわかるまで待つレッスンが一般的でした。そういうアンテナの感度を高めて保つのが難しくなりました。

 私のレッスンは、5分間もあれば示せます。その5分間のうち、たった5秒のことが、5年、10年の課題です。呼吸も、体も、筋肉も、全身のバランスやセンサーも、共鳴もそれぞれに整わなくては実現しません。何かが、すぐにそこで実現できてしまうくらいの基準では、レッスンにならないではありませんか。

声の表現力

 先日、ある合唱団の先生が、「リズムは体でとると遅れるからイメージ(頭)でとれ」と教えていました。こういうのは、体感、イメージ力で、頭ではないのです。現にその先生自身は、体でリズムをとっていました。そこまでには何年もかかるから演奏会に間に合いません。普通の子の体や感覚はまだまだは鈍いですから、こういう指導がマニュアルとしてはよいともいえるのです。でも、こうした期間限定ばかりで仕上げようとしているのが、今の日本の大人です。中高校の合唱団は期間限定ですから、これはこれでよいとなるのです。

 今の日本のプロレベルのオーディション対応の歌唱やセリフまでは、レベルⅡで充分と思っています。しかし、その型を破り、個性にして、オリジナルのフレーズで勝負するならば、Ⅲレベルに達することが必要だと思っています。「歌手なら、しゃべるように歌い、役者なら歌うようにしゃべれる」ということです。

 レベルⅠ、Ⅱ、Ⅲというのは、レベルが上がっていくのはなく、必要性が上がっていくのです。Ⅲがハイレベルというのではなく、最も基礎の基礎となるのです。

 多くのヴォイストレーニングの受講者が、「歌うようにして歌おう」となるのは残念です。日本のミュージカルの歌が、その典型ですが、どうしようもなく違和感を感じるのです。その世界に入ったとたんに、置き換わった目標がミスリードしているのです。

 私は、演出家の作品としてのよし悪しとは別に、個としてのアーティストの表現しているものを見ています。表現としての声、ことば、歌をみています。声の問題が半分、あとは独創性、つまりは思う、感じる、考えることの集大成です。

 私のレッスンでは、一フレーズでも、どう思ったのかを確認します。一人で判断できる力をつけるためにです。その実習を通じて、主体的に考えられるようにします。本人の意見も参考にしつつですが。

 ことばに頼らないで深く感じることですが、ことばにしないと、積み重なっていくことの把握が難しいからです。研究所ではトレーナーにも、ことばで具体的に示す能力を求めています。

レベルⅢの声

 レベルⅢでは、世界レベルで、人間としての共通のベースです。そこで声を掘り下げ、深めていくのです。結果としてみるだけでなく、最初からプロセスを、意図的にトレーニングするということです。これが私のブレスヴォイストレーニングの主旨です。

 素質に恵まれた人はⅡでも充分かもしれません。それを超えたければやりましょう。もっと恵まれた人はレベルⅠで楽しくやるのでもかまいません。目標レベルを最高にあげてやるためのニーズにⅢは応えます。起死回生でここからやるという人にはよいでしょう。

 一流なら、表現も時代、国を越え、普遍的に通じていくものになります。基礎というのも人間の体を掘り下げたら、時代、国(人種)を越え、共通になります。上を表現、下を基本として、その枠をⅠは上下にレベル1メートル、レベルⅡは10メートル、レベルⅢは100メートルにとっているようなものです。

 ブレスヴォイストレーニングが独創的で、すごいといっているわけではないのです。リズムでいうと、Ⅰは楽譜で学び、Ⅱはフィーリングで踊りながら振付の中で学び、レベルⅢはアフリカやラテンの国で生まれて育ったら身についた―ということに掘り下げるようなものです。つまり「日常性の最大化」ということです。方法やメニュで問うているのではないのです。

 スポーツで例えると、バッターなら、

レベルⅠは、ワンポイントアドバイス、すぐにできるくらいのフォーム修正。

レベルⅡは、バッティングマシーンでのジャストミートでのトレーニング。

レベルⅢは、重いバットを振るとかランニングや筋トレから行うことにあたるでしょうか。

 これは、ステージ、舞台での、非日常を日常にすることです。その人にとって、注意としてのレッスンか、トレーニングをチェックするレッスンか、日常をトレーニングに取り込むかの違いです。

レベルⅡのヴォイトレ

レベルⅡは、日本人の日常や、平均的な器からはみ出したトレーニングといえます。日本では声楽か俳優の、ややハードなトレーニングにあたります。

  1. 喉そのものを変える

2.表現、強いインパクトを目指す

3.体、呼吸、共鳴、その結びつきを変える。

 やり方、メニュや優先順位は違っていても、結果的にこの3つのことを相乗効果として、求めます。これは、日本では、ヴォイトレよりも長年の舞台経験や日常のトレーニングの成果として現れているほうが多いようです。

 役者は1、2から、声楽家は3からアプローチして、トータルとして1~3が変わっていきます。レベルⅠよりも全身での発声感覚が強いのと音色が深まる(芯のある声)となるのが特色です。

 最近は、科学的(生理的)な知識をもって、筋肉レベルでアプローチするトレーナーもいます。それは、レベルⅠでの、喉の状態をよくすることという、かなり限定されたなかでの効果しかでていないと思います。

 根本的には、喉の脱力で解決します。トレーニングとみるよりは、フォローとみるべきでしょう。

私は、ポリープや結節などの医者の手術でさえ五分五分、何でもすぐに処方すればよいとは思っていません。発声はもちろんのこと、体や心、日常生活そのもの、あなた自身の環境や習慣を変えていくことが、大きな課題と思っています。

 しかし、メインの処方ですぐに直して使いたい人が多いのが事実です。そういう人は、それでもよいと思います。大した変化は起きないでしょう。ハードに使えば同じ障害が起きるとわかると、少しずつ使わないようになってきて、表現の可能性も失っていきます。部分だけで処方してもよくなりません。多くの人は喉が原点だと思って、そこの問題だと考えるのです。

最近は、喉が弱い人が多いので、そういう傾向が顕著です。しかし、喉が弱いなら、鍛えなくてはいけないのです。それをどうこういじったところで、少しよくなったり、また少ししたら悪くなりで一喜一憂しても仕方ないです。その上、くせで固めて、声量を犠牲に安定させてしまいます。それを発声法だと信じてしまうのです(これは私でなく医者の大先生お二人からの意見です)。それでは1日1回の舞台で、2、3ケ月毎日の舞台に耐えられる日はこないでしょう。

 このレベルⅡで全体的に調整しつつも、結果として日常の枠を破りましょう。それが私にとっては最低限、トレーニングというのに値します。これまでのあなたの日常での限界、日本人の限界を、知らず知らずに、外しましょうということです。ここでは声についてのことです。

レベルⅠのヴォイトレ

一般的なヴォイトレは、声の使い方を変えて、声域、声量(共鳴)、ロングトーンやレガートなどに対応しやすくすることを目指します。調整して、整えていく方向で行います。そのために表現や発声機能を変え、効果的に声が響くようにすることが多いです。便宜上、これをレベルⅠとします。

そのために、生声である発声に対しては、喉を外して、いかにカバーするか、というアプローチがなされます。ポップスのヴォイトレ、プロデューサー、演出家、作曲家、プレイヤー(特にピアニスト、ストリングス)、カラオケの先生のレッスンは、これにあたります。

 そこは、経験がある人、勘のよい人や、条件がそれなりに整っている人なら、レッスンを受けなくても結構できてしまいます。お笑い芸人の物まねでも、私が感心するほどに声を使える人もいます。

 日本でのコーラス、ハモネプ、合唱団、J-POPS、オールデイズ、ジャズ、シャンソン、民謡歌唱あたりの歌手を思い浮かべてください。声は軽く、浅く、頭声共鳴がよく、高い声が出しやすいタイプです。それはこういう人などをもっぱら教えているトレーナーにもあてはまります。

 これが主流なのは、初回のレッスンからすぐに効果が出てわかりやすいからです。短期において、わかりやすく、ローリスクなトレーニングともいえます。リップロール、ハミングなどは、このメニュの定番です。

 わかりやすい声域、高音域に焦点をあてていますが、音色などの基本条件は大して変わりません。声量はつきませんが共鳴がよくなるでしょう。トランペットでいうと、ラッパの先を広げてみるようなトレーニングといえるでしょう。日本のポップス、アナウンサー、声優あたりでも行われています。

 呼吸や姿勢も扱いますが、実のところ、表面的な形で、ウォーミングアップ程度に行われているだけです。そのため、本格的な習得にはなかなか至りません。その差は日本人と外国人の音色やパワー、特に、高音の違いに顕著に表れています。

 そのトレーニングの結果は、別のトレーナーのもとに行くと、「基本ができてない」という(言わなくても思われる)くらいです。

 このレベルではレッスンしたという判断が、端からつかないことも少なくありません。困ったことにこのレベルが日本では多くのトレーナーの指導目標になっています。こういうトレーニングがヴォイトレで一般的なのです。

 バランスを整えるということでは、海外のトレーナーも同じようなメニュを導入や仕上げ段階として使います。それは日常の声の基礎レベルの高い欧米人のシンガーには合っています。しかし、そこでのギャップは、Ⅱのレベルで補う必要があります。

理想の一声☆

最近、ある役者さんと邦楽家の席に招かれ、お話したことを取り上げてみます。私のヴォイトレにおける立場や考えに通じることです。

 「ヴォイトレは、声楽とどう違うのか」ということから、始まったのですが、声楽の定義は、これも人それぞれですから、ここでは触れません。音楽之友社の、「読むだけで、声と歌が見違えるほどよくなる本」)に詳しく述べてあります。

 ヴォイストレーニングという定義についても同じです。私がヴォイストレーニングで示そうとしたものは、声の発された一瞬を、理想として通用するレベルに高めようというものでした。一言で言うと、まさに「一声」、これだけで声の真価を示そうということです。

 そんなことができるのかという人は、そういう声を聞いたことがないか考えてみてください。ことばとして意味をもつ以前の声の力です。声=ひびき=歌ともいえますが、歌のような形式が定まっていないものを考えているのです。

 一瞬にできないもの、示せない声は、歌にも使えないというのが、当初の私の見解でした。

実際には、一声、一フレーズも、一瞬も、もたなくても、セリフや歌はもちます。プロはそこだけで見せているのではないからです。

 その「一声」といっても個人差があります。私は誰にも共通の一声(見本として、特定のプロや、あるいは私自身の声を元にする)を目標にさせるつもりはありません。そのために、理想の発声原理として「体―息―声の結びつき」と、「声そのもの」を見ていました。その人にはその人なりの発声があり、バランスがあるということです。

 そこにトレーニングということが入ると、このバランスと部分強化ということでの優先順位や価値観が生じ、いろいろと複雑になるのです。さしあたって考えるべきことは、次のようなことです。

1.その人にとっての「理想の声」というのはどういうものか、それは一般的な「理想の声」とどう異なるのか

2.それは、どういう状態や条件に支えられているのか

3.条件に対して、補ったり、強化したり、新たに獲得する必要範囲とは何か

4.表現における必要性からみた状態と条件について、どう考えるか

 

 この前提として、声を鍛える、磨く、それは声を変えることの可能性や限界への追究です。声の音色そのものの変化と言えましょう。それについては、ほとんど何も明かされてきていないのです。

 

成果の検証

 トレーナーのヴォイトレの効果は、検証が難しいものです。他のトレーナーなら、もっと成果が出たか、あまり成果が出なかったか、もっと悪くなっていたかは、簡単に試せるものではないのです。しかし、私はいつもそのことを考えて対しています。

 前のトレーナーですぐに成果として出なかったり、一時、悪くなっていたようなことが、次のトレーナーのときに成果として出てくることもあります。どちらの効果かわからない。私は「野村監督のあとに(優勝させてしまう)星野監督効果」と言っています。どちらの貢献度が高いかは一概にいえません。

 本人の充実度、満足感と本当の成果は必ずしも一致しません。案外とトレーナーの力でなく、本人が9割の要因をつくっているものです。そのようにしてみると、初歩においては、どのトレーナーでも、あまり差がないともいえるのです。さらに、短期的効果と長期的効果は違います。

 受ける人の感性が鈍くなると、トレーナーもサービス業化していくものです。気をつけましょう。

1.笑顔

2.勇気づけのことば

3.専門知識での解説

4.安易な効果の実感、体験(体感)

5.商品のお勧め

 こういうものは、概してメンタルへの働きかけでのプラシーボ効果です。一時、よくなりますが、本来の本当の問題から目をそらし、解決を遅らせてしまうことになるのです。

 トレーナーの「毎日トレーニングしないとだめ」ということばも、「週に一度ほどでいい」ということばも、同じです。本当にコツコツとやっている人には、何の関係もないのです。

全体と部分

 喉は部分、体は全体です。これを最近、喉だけで解決しようという人が少なくありません。医者が声帯や喉頭をいくらみて、診断しても、アーティストは、そのようなこととは全く関係ないところで実践しているのが現実です。個人差もあれば、バラ付きもあります。

 診断から発声や歌唱を判断することは、一理はありますが、参考に留めておくべきでしょう。

 私も喉や声帯をみてもらいましたが、そのあとに何ら変わりありません。

 ですから、多くのトレーナーは、喉を忘れるように指導をしてきたのです。つまり全身の感覚でコントロールすることを覚えていくのです。どちらかというと、質や条件の欠けている人が、喉という部分にこだわるので、ますます、力が入るような症状が出やすいのです。

 病的なケースでは外見からの処置で直せることはありますが、それ以上は、どれくらいの効果があるかは、よくわかりません。そのあたりをきちんとふまえていきたいものです。

 

直観と経験

 絶対量について、時間や長い期間、体験を積むのは、それにあたります。それが経験知として体現できたのかわかるのは、そこから何かが身に付いたことが示されてから、です。自転車に乗れるようなコツ、思い切りの勇気、未知の感覚への慣れと調整、具体的には体のバランス、重心コントロール、腕、足での支えです。

芸事なら1、2年ではできません。そして、直観。感性のマップから説明しました。これについては、私の感性と集中力の研究を読んでみてください。

 生物として、情報を感受(感知)する、先取る、さらに直観―発想―創造力、この3本柱です。

 アーティストを育てるにも、こういうものを天性として見いだし、引き出し、補強しなくてはなりません。

 ここでは材料を与えます。材料を使い判断されてやっていくうちに、本人が判断をものにしていくのです。

 精神論は、トレーニングに不要というような最近の傾向ですが、おかしなことです。アーティストにするには、コーチは相手の精神をコントロールしていけばよい、体のことは本人が一番知っていく、そのように育てなくてはいけないのです。