レッスンに、理屈、言い訳、責任転嫁といったようなものが許されるようになれば、それはレッスンではありません。これまでにそういうことさえ学ぶ場も時間もなかったなら、それを学ぶという使い方からでもよいと思います。
これも、いつかでなく、今すぐ、ワープして欲しいものです。声を通して気づいたら一瞬にワープできるはずなのです。
そういった、周りの余計なもの、余分なものを削いでいかなくては、本質を剥き出せません。剥き出すには、ときに耐え難い覚悟もいるかもしれません。周りの声というのは、それに影響を受けやすい人には、ときに大きな邪魔や障害になるものです。
生きている、その実感においてしか本当に人に伝わるものはつくれないのです。そうした実践は、頭でなく体で行うしかないのです。