習作にもオリジナルは出るのです。練習の声でもわかります。
それを出そうとするのでなく、消そうというのは努力の方向が真逆です。なのに、日本人の多くは、憧れの人やトレーナーのコピーを目指したがるのです。義務教育の弊害でしょうか。もう、そのまま、まねるのは学ばなくてもよい。まして、トレーナーにつくなら、そこで使うのはもったいないのです。
トレーナーもそこで対しているのは、クリエイティブでないでしょう。このつまらなさに耐えるのが仕事という真面目な人が、教えたい人には多いのです。いや、耐えるどころか楽しくできる、それはそれでよいとしても、オリジナリティが減じられ、そのまま眠ったままになりやすい。
トレーナーのせいではありません。自ら見つけ、伸ばすというのは、面倒で手間がかかるものです。表現することについて、主体的に生きてきた経験の少ない日本人には、かなりのプレッシャーになります。
ゆえにレッスンに来るべきですが、そこで伸びているつもりで目指す方向が違うと伸びを制限してしまいます。大きくいうなら、習うことで潰れているのです。トレーナーによるともいえますが、トレーナ―に期待することではないのです。
自分で主体的にならなくては何一つ始まらないのです。レッスンを受けていても、何ら始まっていないのです。