夢実現・目標達成のための考え方と心身声のトレーニング(旧:ヴォイストレーナーの選び方)

声、発声、聞くこと、ヴォイストレーニングに関心のある人に( 1本版は、https://infobvt.wordpress.com/ をご利用ください。)

ヴォイトレの効果

発声の原理、理論や発声のメニュ、アドバイスなどを、私たちはたくさん公開しています。数多くのヴォイトレのノウハウや教えがあります。しかし、これを使う前に、そういうものを使わずに歌手となって活躍している人の方がずっと多い、いや、むしろそういうものを利用してきた人はいない、ということを知るべきでしょう(あるいは、トレーナーの接したプロでなく、トレーナーの育てたプロを探してみればよいでしょう。人気や知名度でなく、声の実力としえみることです)。

 すぐれたプロセスがなく、現実にそうなっていないから、それを補うものとしてヴォイトレがあり、トレーナーもいるのです。それをサプリのように使うのか、根本的に、とか全面的に使うのかは、千差万別です。

 身体の鍛練や精神力の強化をなおざりにして、いくらノウハウやハウツーものを読んだり試したり、トレーナーのところへ行っても、真の効果が出ないです。こういうことは、ご自身のヴォイトレの効果だけで反論される人もいるのですが、よほど突出したものでなければ、検証などできません。「今よりよくなればよい」というのは確かですが、大半は、こまごました誤差の範囲内に入ってしまいかねないくらいの成果であったりするのです。

「レッスンをしたら皆がよくなった」「誰かに認められた」という曖昧なものよりは「たった一人でも世界のトップになった」という事例が欲しいものです。

 私は、よく、ここでのヴォイトレとジムやマッサージと、どちらが声が出るようになっているかなどを調べてみることがあります。「体のことや心のことをやれば声が出るようになる」というのは当然の結果で、そこからどうしていくのかが大切なのです。

自分の声、本物の声

私もある程度、相手やシチュエーションによって声を使い分けています。声のことで私に会う人には、それほどブレず、同じスタンスで、同じ声で対します。歌手や役者ではありませんから、よい歌声やよいせりふをみせるのではありません。トレーニングした声、自分の声というよりは、相手がトレーニングをしたら得られる価値を提示できるような声を示します。

 レッスンでは「よい声の10」ですが、カウンセリングや会話では「オリジナルな声の10」で対します。使うのに疲れず、楽であって深く通る声です。それで8時間以上、使って疲れたりしない声を知らずと選んでいます。いつでもそうであるように備えてもいます。

 声を自分の声として求めるのなら、他人の求める声を出そうということも、ふしぜんで無理のくることです。「見本をみせてほしい」「真似させてほしい」「直してほしい」―。他人のものがほしいと言っているのです。そこで学ぶものは、声でなく体や感覚の共通するところでしょう。

 自分のなかにある声を取り出すこと、出せなくなったら、心身について強化鍛練して取り出せる自分にしていく、それが本筋です。☆

トータルとしての声

声の世界について、みると、そこも広く深い世界です。あらゆるものが繋がっています。日常にも仕事にも声は使われていますから、芸として声を切り離すこともできません。これまで使ってきたプロセスも全て刻まれているのです。

 そういう面ではトータル、あなたの心や体と同じ、生きてきた結果としての声です。声も総合力なのです。それが即効的な効果として機能の向上としてのヴォイトレとして求められてしまったのが、大きな方向違いだったと思っています。

 すでにあなたの声だから、自分の声、本物の声といって、今の声を捨て、新たに声をつくるのではありません。別の声を真似したり、それらしくつくってみても、ものにはなりません。

 歌唱やステージに対して安易に声を扱うと、接客サービス業の声のようにマイナスでない、反感を買わないような声、つまり、説得力のない、浅く若い声になりがちです。これは、本物の芸に逆行します。

 昔は、幼稚な声、甘えた声では通用しなかったのが、一般社会だけでなく、仕事や芸の世界でも許されてきたかのようにみえます。誰も注意せずスルーしています。だからといってよいわけではないということを知ることです。☆

 成り立ってなければダメだったのに、音声で厳しく求める人が少なくなり、問わなくなったとさえいえます。音声で成り立っていると、すごいということになるのです。今のところ、日本=日本人の声の劣化=耳の劣化(変容でもありますが)は留まるようには思えません。

100の内訳

目標100のうち、声20、歌20に加える60は、研究所に来る人でみると、声5、歌3くらいで、10くらいがダンス、作詞、作曲、アレンジで10ずつ、演奏能力もありますし、ステージやビジュアルと応用の作品での演出レベルではプロもいます。作詞作曲の力が30+30=60くらいの人もいます。私が最新の著書で「読むだけで声や歌がよくなる本」と安易なタイトルをつけたのは、トータルを想定してのことです。そこでは、長期的には、もっとも確実な声を10、20、その上に歌を10、20と伸ばしていく必要性を知ってほしかったからです。

 トレーニングさえすれば何とかなるのでなく、トレーニングはするもしないも、そういう世界を選んだら、持続させるものです。やめたときは、あきらめたときです。

 要は、10になっているのか、20へ向かっているのかという最も大切なことを知ること、その渦中にいると見失いがちな60を知っていくこと。

 研究所内外で得たたくさんの要素を本やレッスンには詰め込みました。自分自身で知り、試み、つかみ、挫折したり捨てたりもして、限界と可能性をみていくのなのです。

声20+歌20

当初、研究所の拠点は、音楽事務所音楽大学の関連施設でなく、六本木の俳優座の事務所におきました。声楽家より役者の方が、声が早く鍛えられていたのを体験していたからです。その前は、声優の学校もつくった音響の専門学校におきました。音楽療法の桜林仁教授を顧問にしていました。医学と芸術の間に、私はヴォイトレを意識していたからです。

 歌での10、(=うまい歌10)に加えるオリジナルのフレーズでの10、これは、音楽性を伴うので、声だけでの判断では無理で、中音域から上の声で、役者には鬼門です。それでも声楽のテノールやソプラノほどの高さを当時は想定してなかったのです。ハイレベルの合唱やミュージカル以外であれば、1オクターブの確かな声で応用すれば充分に対応できました。歌は応用という考えは今も変わりません。

 一流歌手、プロ歌手が、昭和前期までのようにラジオ、レコードだけ(つまり、音声の表現力)で勝負するとしたら、声20+歌20の40、これを一つの基礎とみることができると思います。あとの60は、その他の全ての要素です。

 100でプロ、それを超えて200とか、500とか1000以上で天才歌手といったくらいにみています。表現者として目指すべき基礎のトレーニング面では、まずは100というところです。

正道のプロセス

レッスンにおいて声だけでなく歌においてもオリジナルのフレーズを求めざるをえなくなったのは、私のヴォイス本が「ロックヴォーカル基礎講座」というタイトルで最初に出たせいかもしれません。ロックのヴォーカリストになるノウハウの本と思った人が少なくなかったのです。

 本でロックヴォーカリストになるという、ありえないような誤解は内容をしっかり読めばおきないように書いてあります。この本は、ほとんどヴォーカルのことに触れずに、声のことと声の鍛え方、管理のしかたを述べた初めての専門書だったからです。

 ちなみに、この本で、芸人や邦楽、外交官や政治家といった勘の鋭い方もいらっしゃることになりました。こちらとしては大いに勉強にもなり、自信にもなりました。素人がプロのロックヴォーカリストとなり、活躍するより、異分野の一流の芸やビジネスであっても国際舞台で通用するという成果につなげられたからです。ここでは、本当に声の力は1割です。その評価なども大いに検証すべきです。

 私としては、元より、日本人にとっては、直にロックなど欧米レベルのものを歌っていくよりは、体というか、声のレベルが違うのですから、役者レベル(当初は結構高かった)の声に達してから歌えばよいという、正道のプロセスを示しました。

 お笑い芸人や漫才師、噺家などもいらしていました。声の力、やる気、センスなどからみて、業界の中心が歌からお笑いの世界に変わることは、90年代には明らかでした。歌が声の力から離れていったのです。ロックをやろうとした人でも、テクノやダンサブルな方へアーティストが動いていったように私は思っています。

二重構造の声

本来は、人とうまくやっていくための声と、ステージで求められる声は違います。日本のように、丁寧なビジネス声が求められる社会では、接客マナーでのよい声は、マニュアル化されています。誰にも同じように、浅く軽く表層的な静かな声、あるいは、一方的に強く元気にあふれる声が求められています。前者はファストフード、後者は居酒屋で典型的にみられます。一見、正反対のようであって、実のところ、その人の元来の声、オリジナルの声を省みていない点では同じです。

 つまり、10点止まりの声なのです。個性のある声は、リーダーや異なる人々の集う社会では、絶対の条件です。ですが日本人には、かえって不快なのです。

 ここでのオリジナルというのは、誰もやっていない、初めての、というのではありません。その人の元来、本来の、ということです。それをしっかりさせると10の声が20に近づいていきます。それが私のヴォイトレの目的です。

 基礎としての声に応用を兼ね備えた声、その人の潜在能力を、心身を持ってマックスに、発声技術を持ってマックスにすることで、芸となるべく声とするのです。一声でも違いのわかるレベルにしようということだったのです。

 それに対し、現在の声の状況といえば、オリジナルの声にオリジナルの表現でないと認められないレベルの高さにないゆえに、うまい人に似た、器用でよい声の使える人が代用されてしまう悪循環に陥っているのです。

 一般ビジネス社会ではともかく、業界でさえ、一般的な声、見本(以前のスターや売れた人)と似ている声を求めるという日本の未熟さがあります。ヴォイトレをカラオケレッスンに堕落させたともいえます。どこの世界にアーティストに二番煎じを求める国があるのでしょうか。本人の基礎の上にのった応用としてのオリジナルのフレーズでしか通じないという大前提から外れたのが日本です。

表現の定量化

プロとして問われる音声の表現力を100とおいて、100%とします。すると、声は10、歌は10、このあたりが当初、私の考えていた歌い手の条件でした。声の基礎や歌の基礎をやりつつ(あるいは、習わなくとも自らできていて)、声がよい、歌が上手いというレベルで、声10+歌10=計20です。これで、のど自慢なら入賞できるでしょう。しかし、それなりのプロの表現者とは5倍ほどの開きがあります。

 そこでヴォイトレで、声をオリジナルの声として100%開花させていく方向で、自分の声、本物の声を問うていくのです。

 そうなりたいと来る人に支えられてきた研究所ですが、声の定義はありません。声はオリジナルです。でも、このオリジナルを本当に目指せる人は、残念ながら、それほど多くありません。

 自分でない声、偽物の声、がもし使われているとしても、それは、本音に対する建前と同じく、世の中では必要とされるからです。仕事上、丁寧な声を使い、普段は粗っぽい声でしゃべるとしたら、声として求められている価値は、仕事で使っている声にあります。

 本人が、それを「自分の本当の声はでない」と思っても、仕事は相手の求めるものに応えることです。歌や舞台のせりふも自分の思う自分の声よりも、他者の求める役割の声が必要とされるのです。

特に日本は、一般の仕事でも舞台でも、この差が大きいのです。これは、ヴォイトレでの声づくりを妨げる二重構造として、私が指摘してきた通りです。

声から+αのプロセス

ヴォイトレというのですから、それは声を学ぶトレーニングです。

 私は当初、声だけ取り出して、「ハイ」など、声の1フレーズで価値づけていくレッスンを主眼にしていました。本が出て一般の人が来るようになって、方針を増やさざるをえなくなってきました。

プロと行なっていたときには、プロは歌えるし、場があるので、まさに声の力だけを求めてきていたのです。それゆえ、レッスンはとてもシンプルでした。

 当初は力のある人が来ていたのに、プロダクションが絡むにつれ、中心がデビュー前の人とか、歌手に転向したモデルとか、有名人の二世さんなどになりました。すると、カラオケの先生のような、デビュー前の仕上げという仕事になってきました。声そのものにアプローチできなくなってきていたのです。そこで、一般からプロを目指す人とじっくりと行える研究所をつくったのです。

 当初は、素人といってもやる気があり、目標があり、実績もある人ばかり来ていたので、声とその応用であるフレーズが課題でした。「ハイ」という声とカンツォーネなどの大曲のサビの「4~8フレーズ」の応用、その2つの精度を高めていくことが中心です。プロになるためにもっとも大切なものだけの、シンプルで本質的なレッスンと今でも思います。

 グループで他の人の声やフレーズを比べつつ、一流の歌手の歌唱フレーズから吸収しては、即興で作品化していくことをフレーズ単位で行いました。うまい歌でなく、自らのオリジナルのフレーズをデッサンする実習を加えていったのです。

 方針が増えたのは、音程やリズムなど、音楽や歌そのものに慣れていない人が増えてきたからです。それを補強するためのメニュなど、トータル化していくプロセスをとったからです。来る人によって場は変わるのです。

 

声は1割

プロなのか、一流なのか、表現者なのか、アーティストなのか、ともかくも、この世界に入ってくる多くの人が目指すレベルのことを成し遂げている表現者、ここの場合は音声でのということですが、そこにおいても「声の占める割合は1割」と、ずっと言ってきました。

 「人は見た目が9割」とか「伝え方が9割」などというタイトルで本が売れていますが、私から言うと、ここの「人」というのは、「仕事のできる人」ということでしょうが、「見た目」も「伝え方」も占める割合は1割でしょう。ただの人としてなら1割も必要ないかもしれません。それが9割であるというのは、他に何の取り柄もない人と比べてです。それは、クラスで班長を選ぶようなもので、接客、介護などでは好感は持たれるでしょうが、トップレベルの仕事では成り立ちません。

 プロや表現者にとっての1割というのは、とてつもない重みを持ちます。たとえば職人技の工芸品や画家の絵のなかで、1割おかしければ、名声はすべて崩れてしまうでしょう。3割バッターなら強打者、2割バッターなら普通の打者です。

 たかが1割のようでも、そこがあって、全てがのってくるのです。その重みを知るべし、です。とても一所懸命やっている声のトレーニングでも表現を支える1割ということです。ベースとなるものとしてあります。声は1割とわかった上で、他に9割もやることがあるのです。でも、1割確実に声で得られるなら、それほど心強いことはないはずです。

3つに分けてみる

表現のためのトレーニングについては、私は3つに分けています。次のように分けて考えるとよいと思います。

1.心(ハート、魂)

2.体=息=声=共鳴=ことば

3.ステージ=表現の成立

これらの心身とステージまでをヴォイトレで扱います。

試練(田中将大さん)

(田中)マーくんの活躍は、コーチのフォームの改良のおかげだそうです。TVの解説通りですが、背番号が半分かくれる大きなフォーム改良をしたのです。そうしなければ、肩を壊していたらしいです。

 怪我をしないことと、最良最高のありようにその人をもっていく、これが見事に一致するのが、スポーツのよさです。もちろんヴォイトレにも通じます。

 もしかして1球だけの速さや遠投を競うのでは、こうはならないのかもしれません。どんな競技も、最初の優勝者は力づくで勝ちとる力自慢でしょう。そのレベルが上がると、誰もが力は持っているので、そこからフォームが勝負の決め手となってきます。

 忘れてはならないのは、そのために彼は投げ方を変えただけでなく、徹底した下半身の強化をしたということです。